使徒の活動 13:1-52
脚注
注釈
地域支配者ヘロデ: マタ 14:1の注釈を参照。
エホバに仕え: この節で使われているギリシャ語レイトゥールゲオー(仕える,奉仕する)は,ヘブライ語聖書のセプトゥアギンタ訳で,元のヘブライ語本文に神の名前が出ている箇所でしばしば使われている。例えば,セプトゥアギンタ訳の代二 13:10で「エホバに奉仕し」というヘブライ語のフレーズを訳すのに,使徒 13:2と同じギリシャ語の表現が使われている。代二 35:3の「エホバ……に仕え」というヘブライ語のフレーズを訳すのにも,同じギリシャ語が使われている。(サ一 2:11; 3:1。エゼ 45:4。ヨエ 2:17)付録C3の序文と使徒 13:2を参照。
仕え: ここで使われているギリシャ語レイトゥールゲオーはレイトゥールギア(人々のための奉仕)とレイトゥールゴス(公僕,人々のために奉仕する人)と関係がある。古代のギリシャ人はこれらの語を,人々のために行われる国家や関係当局に関連した仕事や奉仕について使った。例えば,ロマ 13:6(注釈を参照)で,政府当局者が人々のために有益なサービスを提供しているという意味で神の「公僕」(レイトゥールゴスの複数形)と呼ばれている。ルカ 1:23(注釈を参照)では,レイトゥールギアという語が「聖なる奉仕」(または,「人々のための奉仕」)と訳されていて,バプテストのヨハネの父ゼカリヤの奉仕に関して使われている。その節でのレイトゥールギアの使い方は,セプトゥアギンタ訳でのこの語とその関連語の使い方に沿ったもの。それらは幕屋(出 28:35。民 1:50; 3:31; 8:22)と神殿(代二 31:2; 35:3。ヨエ 1:9,13; 2:17)での祭司とレビ族の奉仕に関連して使われている。こうした奉仕には人々のためのものという面があった。しかし,文脈によっては神聖さという面もあった。レビ族の祭司は神の律法を教え(代二 15:3。マラ 2:7),民の罪を覆う犠牲を捧げたから。(レビ 1:3-5。申 18:1-5)使徒 13:2でギリシャ語レイトゥールゲオーはより広い意味で使われていて,シリアのアンティオキアにいるクリスチャンの預言者や教える人たちの奉仕について述べている。この語は,神に専心し仕えていることの表れであるさまざまな行為を指していて,それには,祈り,説き勧め,教えることといったクリスチャンの奉仕が含まれている。これらの預言者や教える人たちの奉仕には,一般の人々への伝道が含まれていたに違いない。(使徒 13:3)
セレウキア: 地中海沿岸の防備された港町。シリアのアンティオキアの港で,アンティオキアの南西約20キロの所にあった。この2つの場所は道路とオロンテス川で結ばれていた。船が通れるその川は,アンティオキアを流れ,セレウキアの少し南で地中海に注いでいた。アレクサンドロス大王の将軍の1人セレウコス1世(ニカトール)がその町を建設し,自分にちなんだ名前を付けた。パウロは西暦47年ごろ,バルナバと共にセレウキアから船出して,最初の宣教旅行を開始した。セレウキアは,現代のトルコにあるスワイディーヤつまりサマンダーのすぐ北にあった。オロンテス川の泥によって,古代セレウキアの港は沼地に変わった。付録B13参照。
船でキプロス島に向かった: 200キロほどの旅。1世紀当時,順風であれば船は1日に150キロほど進めた。気象条件が悪いと,ずっと時間がかかった。キプロスはバルナバの故郷だった。付録B13参照。
サラミス: キプロス島の東側に位置した。ローマ属州の州都は西岸に位置するパフォスだったが,キプロスでの伝道旅行をサラミスから始めたのは,もっともな判断だった。シリアのアンティオキアのそばから出発した宣教者たちにとって,サラミスの方が近く,その町は島の文化,教育,商業の中心地だった。また,サラミスには会堂が複数あり,かなりの数のユダヤ人がいた。キプロス生まれのバルナバは一行の案内役として適任だったに違いない。どのルートを通ったかによるが,島中を回って伝道するのに少なくとも150キロは歩いただろう。付録B13参照。
ヨハネ: ヨハネ・マルコのこと。イエスの弟子の1人,「バルナバのいとこ」(コロ 4:10),マルコの福音書の筆者。(マル 書名の注釈を参照。)使徒 13:13でも,ヨハネと呼ばれている。しかし,「使徒の活動」のほかの3つの節では,ローマ名の「マルコ」とも「呼ばれる」ことが示されている。(使徒 12:12,25; 15:37)ヨハネという名前は,ヘブライ語名のエホハナンあるいはヨハナンに相当する。「エホバは恵みを与えてくださった」,「エホバは慈悲深い」という意味。ギリシャ語聖書のほかの箇所では,「マルコ」と呼ばれている。(コロ 4:10。テモ二 4:11。フィレ 24。ペ一 5:13)
マルコ: ラテン語名マルクスから。マルコは使徒 12:12に出てくる「ヨハネ」のローマ名。母親はエルサレムに住んでいた初期の弟子マリア。ヨハネ・マルコは「バルナバのいとこ」(コロ 4:10)で,バルナバと旅をした。パウロや他の初期クリスチャンの宣教者たちとも旅をした。(使徒 12:25; 13:5,13。テモ二 4:11)この福音書は誰が筆者かを述べていないが,2世紀と3世紀の著述家はこの福音書をマルコによるものとしている。
執政官代理: ローマ元老院の管轄下にある属州の統治者の称号。ローマの属州の中にはユダヤのような皇帝直轄の属州があり,皇帝が統治者を任命した。キプロスは,紀元前22年に元老院管轄の属州になったので,執政官代理が治めた。キプロスで発見された硬貨には,片面にローマ皇帝クラウディウスの横顔と称号(ラテン語)が,もう片面に「キプロス島民の執政官代理コミニウス・プロクルスの下に」(ギリシャ語)という文字が刻まれている。用語集参照。
パウロ: ギリシャ語聖書の原文で,「小さい」,「小さな」を意味するラテン語パウルスに由来するパウロスという名前が,使徒パウロについて157回,キプロスの執政官代理セルギオ・パウロについて1回使われている。(使徒 13:7)
パウロとも呼ばれるサウロ: この時以降,サウロはパウロと呼ばれている。この使徒はローマ市民権を持つヘブライ人として生まれた。(使徒 22:27,28。フィリ 3:5)それで子供の時から,サウロというヘブライ語名とパウロというローマ名を持っていたと思われる。当時のユダヤ人,とりわけイスラエルの外に住んでいた人たちが2つの名前を持つのは珍しいことではなかった。(使徒 12:12; 13:1)パウロの同族の中にも,ローマ名やギリシャ語名を持つ人たちがいた。(ロマ 16:7,21)パウロは「異国の人々への使徒」として,ユダヤ人でない人に良い知らせを広める任務を与えられていた。(ロマ 11:13)パウロはローマ名を使うことにしたようだが,それはローマ名の方が受け入れられやすいと感じたからかもしれない。(使徒 9:15。ガラ 2:7,8)セルギオ・パウロに敬意を表してローマ名を使ったという意見もあるが,キプロスを離れた後もローマ名を使っているので,そうとは考えにくい。また,ヘブライ語名サウロをギリシャ語式に発音すると,ふんぞり返って歩く人(または動物)を指すギリシャ語に似ているので,ヘブライ語名を使わなかったという意見もある。使徒 7:58の注釈を参照。
エホバの……道: ユダヤ人の呪術師バルイエスに対するパウロの言葉(10節と11節)には,ヘブライ語聖書に背景を持つ表現が幾つかある。例えば,ここで「道をゆがめる」と訳されているギリシャ語のフレーズは,セプトゥアギンタ訳の格 10:9(「不正直に歩む」)に出ている。「エホバの正しい道」というフレーズに出ているギリシャ語は,セプトゥアギンタ訳のホセ 14:9にも出ている。元のヘブライ語本文ではその節で神の名前が使われている(「エホバの道は正しい」)。付録C3の序文と使徒 13:10を参照。
エホバの手: 使徒 11:21の注釈,付録C3の序文と使徒 13:11を参照。
エホバの教え: 「エホバの教え」という表現は,使徒 13:5の「神の言葉」と同じ意味で使われている。その節によると,パウロの一行はキプロスに着くと,「ユダヤ人の会堂で神の言葉を広め始めた」。その結果,執政官代理のセルギオ・パウロが「神の言葉を聞きたがった」。(使徒 13:7)セルギオ・パウロは,パウロの言葉と行いを直接見聞きして,エホバ神について学んだこととエホバからの教えにすっかり驚いた。付録C3の序文と使徒 13:12を参照。
ピシデアのアンティオキア: ローマの属州ガラテアの町。フリギア地方とピシデア地方の境界に位置していたので,どちらの地方の一部と見なされるかは,時代によって違ったかもしれない。この町の遺跡は現代のトルコのヤルバチの近くにある。ピシデアのアンティオキアはここと使徒 14:19,21に出ている。地中海沿岸に程近いペルガの町からピシデアのアンティオキアに行くのは大変な旅だった。アンティオキアは海抜約1100メートルの所にあり(付録B13参照),油断できないこの山道には盗賊が出没した。「ピシデアのアンティオキア」をシリアのアンティオキアと混同すべきではない。(使徒 6:5; 11:19; 13:1; 14:26; 15:22; 18:22)「使徒の活動」に出てくるアンティオキアはほとんどの場合,ピシデアのアンティオキアではなく,シリアのアンティオキアを指す。
律法と預言者の言葉が朗読された: 1世紀,この朗読は「安息日ごとに」行われた。(使徒 15:21)会堂での崇拝の1つの特色は,ユダヤ人の信仰告白としてシェマを唱えることだった。(申 6:4-9; 11:13-21)シェマという名称は,最初に唱える聖句の冒頭の語から来ていて,その聖句は,「聞きなさい[シェマー],イスラエル,私たちの神エホバはただひとりのエホバです」となっている。(申 6:4)礼拝の最も重要な部分は,トーラーつまりモーセ五書の朗読だった。多くの会堂では律法全体を1年間で読むように計画していたが,3年かけて読む会堂もあった。預言書も朗読され,説明された。朗読の結びに講話が行われた。ピシデアのアンティオキアの会堂で,この朗読の後に,パウロは,集まっていた人々に励ましの言葉を話すよう勧められた。ルカ 4:16の注釈を参照。
約450年間: イスラエル人の歴史に関するパウロの論議は,重要な出来事が起きた時,つまり神が「私たちの父祖を選」んだ時から始まっている。(使徒 13:17)パウロは,イサクが約束の子孫として実際に生まれた時のことを意識していたようだ。(創 17:19; 21:1-3; 22:17,18)神が誰を約束の子孫として認めるのかは,サライ(サラ)に子供ができなかったためにはっきりしなかったが,その問題がイサクの誕生によって完全に解決された。(創 11:30)パウロはその出来事を始まりとして,神がご自分の選んだ国民のために行ったことを列挙した後,神が預言者サムエルの時まで裁き人たちを与えたと述べている。それで,「約450年間」は,紀元前1918年にイサクが誕生した時から紀元前1467年までになるようだ。イスラエルが紀元前1513年にエジプトを出てから46年後にその期間が終わったというのはふさわしい。イスラエル人は荒野を40年放浪し,6年かけてカナンを征服した。(民 9:1; 13:1,2,6。申 2:7。ヨシ 14:6,7,10)
子孫: または,「子孫たち」。直訳,「種」。付録A2参照。
杭: または,「木」。使徒 5:30の注釈を参照。
墓: または,「記念の墓」。用語集の「記念の墓」参照。
神に仕え: または,「神の望むことを行い」,「神の目的に仕え」。使徒 20:27の注釈を参照。
神を崇拝する: ここで「神を崇拝する」と訳されているギリシャ語セボマイは,「崇拝する」,「あがめる」,「崇敬する」という意味。「神を畏れる」,「敬虔な」とも訳せる。(使徒 13:50の注釈を参照。)シリア語ペシタ訳では「神を畏れる」と訳されている。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の1つ(付録C4のJ18)は,ここで神の名前を使っていて,「エホバを畏れる」と訳せる表現になっている。
神の惜しみない親切: パウロはイエスと弟子たちに抵抗した過去があったので(使徒 9:3-5),エホバの惜しみない親切を強調したのももっともなことだった。(用語集の「惜しみない親切」参照。)パウロは,自分が宣教を行えるのは,ひとえに神の惜しみない親切のおかげであることを理解していた。(コ一 15:10。テモ一 1:13,14)エフェソスの長老たちと会った時,この親切のことを2回述べている。(使徒 20:24,32)パウロは14通の手紙の中で,「惜しみない親切」について90回ほど述べている。これは他のどの聖書筆者よりもはるかに多い。例えば,「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」を除くどの手紙の冒頭のあいさつの中でも,神もしくはイエスの惜しみない親切について述べていて,全ての手紙の結びの言葉の中でその表現を使っている。
エホバの言葉: 使徒 8:25の注釈,付録C3の序文と使徒 13:44を参照。
エホバは次のような言葉で私たちに命令しています: この節の続く部分はイザ 49:6からの引用で,元のヘブライ語本文は,エホバが話していることをはっきり示している。(イザ 49:5。イザ 42:6と比較。)この預言の実現には,エホバに仕える者イエス・キリストと弟子たちが行うことが関係している。(イザ 42:1)ルカ 2:32の注釈,付録C3の序文と使徒 13:47を参照。
地の果てにまで: または,「地上の最も遠い所にまで」。この預言はイザ 49:6からの引用で,セプトゥアギンタ訳のその聖句に同じギリシャ語の表現が出ている。イザヤは,エホバに仕える人が「国々の光」となり,神の救いが「地の果てにまで及ぶ」と預言していた。パウロとバルナバはピシデアのアンティオキアで話した時,この預言の言葉が,国々の光として仕えるようにというキリストの弟子に対するエホバからの命令であることを示した。ここで「地の果てにまで」と訳されているギリシャ語の表現は使徒 1:8(注釈を参照)でも使われていて,イエスの弟子たちがイエスの証人となる範囲を示している。
エホバの言葉: 使徒 8:25の注釈,付録C3の序文と使徒 13:48を参照。
正しい態度を持つ: これはパウロとバルナバが伝道するのを聞いて信者となったピシデアのアンティオキアの異国の人々を描写した表現。ここで「正しい態度を持つ」と訳されているギリシャ語動詞(タッソー)は,「置く」,「配置する」,「取り決める」,「定める」など,広い意味を持つ。どんな意味かを判断するのに文脈が助けになる。使徒 13:46では,ピシデアのアンティオキアのユダヤ人とここ48節に出ている異国の人々が対比されている。前の週の安息日に,パウロは両方の人たちに心を打つ講話をし,徹底的に教えた。(使徒 13:16-41)パウロとバルナバによると,ユダヤ人たちはかたくなに「神の言葉」を退け,「永遠の命に値しない」ことを態度と行動によって示した。(使徒 13:46)一方,この町の異国の人々の態度は大きく異なっていた。その人たちは喜び,エホバの言葉を賛美するようになった。それで,この文脈でギリシャ語動詞タッソーは,アンティオキアのユダヤ人ではない人たちが,永遠の命につながる態度,傾向,気質を示すことによって,命を得る「立場に自分たちを置いた」という考えを伝えている。そのため,ここのギリシャ語を「ための正しい態度を持つ」と訳すのは適切。ところが,多くの聖書翻訳では,使徒 13:48で「ように定められている」という表現が使われていて,その人たちが命を得るよう神によってあらかじめ定められていたという印象を与えかねない。しかし,前後の文脈も聖書のほかの部分も,アンティオキアの異国の人々が命を得るようあらかじめ定められていたという見方を支持していない。そこのユダヤ人たちが永遠の命を得ないようあらかじめ定められてはいなかったのと同じ。パウロはユダヤ人が良い知らせを受け入れるよう説得したが,ユダヤ人はその知らせを退けることを自分で選んだ。そうするようあらかじめ定められていたのではなかった。イエスは,ある人たちは「神の王国にふさわしい人」でないことを行動によって示すと述べた。(ルカ 9:62)また,イエスは良い知らせに「ふさわしい」ことを態度によって示す人についても述べていたが,これらアンティオキアの異国の人々はそのような人たちだった。(マタ 10:11,13)
エホバの言葉: 使徒 8:25の注釈,付録C3の序文と使徒 13:49を参照。
神を畏れる: または,「神を崇拝する」。ギリシャ語セボマイは,「あがめる」,「崇敬する」とも訳せる。シリア語ペシタ訳では「神を畏れる」と訳されている。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つか(付録C4のJ7,8,10,18)は,ここで神の名前を使っていて,「エホバを畏れる」と訳せる表現になっている。
2人は,その人たちに対して足の土を振り払い: パウロとバルナバはここで,マタ 10:14,マル 6:11,ルカ 9:5に記されているイエスの指示通りにした。信心深いユダヤ人は異国人の土地を通ってくると,ユダヤ人の地域に入る前に,サンダルの土を汚れと見なして振り払っていた。しかしイエスは弟子たちにこの指示を与えた時,別の意味で述べていたようだ。この動作によって,弟子たちは神の裁きの結果に関して責任がないことを示した。パウロはコリントでも同様に自分の服に付いた土を振り払い,こう説明している。「あなた方がどうなるとしても,それはあなた方自身の責任です。私は潔白です」。使徒 18:6の注釈を参照。
メディア
アンティオキアはローマの属州シリアの州都で,西暦1世紀,ローマ帝国でローマとアレクサンドリアに並ぶ三大都市の1つだった。アンティオキアは,オロンテス川(1)の東岸に建てられ,もともと島(2)も含んでいた。川をしばらく下った所にセレウキアの港があった。アンティオキアには,競馬と戦車競技が行われた当時最大級のヒッポドローム(3)があった。アンティオキアは,ヘロデ大王が大理石で舗装した列柱通り(4)で有名だった。後に,ティベリウス・カエサルが柱廊を増築し,通りをモザイク画と像で飾った。この多文化都市には大きなユダヤ人共同体(5)があった。その中の大勢の人がクリスチャンになった。イエスの弟子たちがクリスチャンと呼ばれたのはアンティオキアが最初だった。(使徒 11:26)やがて多くの異国人が信者になった。西暦49年ごろ,割礼の問題が持ち上がり,パウロとバルナバを含む代表者たちがエルサレムの統治体のもとに遣わされ,指示を受けた。(使徒 15:1,2,30)使徒パウロが行った宣教旅行の本拠地は3回ともアンティオキアだった。(使徒 13:1-3; 15:35,40,41; 18:22,23)この地図に示されている城壁は,何世紀もの間に造られた城壁を組み合わせたもの。
この写真は,現代のトルコのアンタキヤの町。ローマの属州シリアの州都だったアンティオキアという古代の町があった場所。西暦1世紀,シリアのアンティオキアはローマ世界でローマとアレクサンドリアに次ぐ3番目に大きな都市だったと言われている。人口は25万人以上だったという推定もある。ステファノがエルサレムで暴徒によって殺され,迫害が起きた後,イエスの弟子たちの中にはアンティオキアに来た人たちもいた。その人たちは,ギリシャ語を話す人々に良い知らせを伝え,大きな成果を得た。(使徒 11:19-21)その後,使徒パウロがアンティオキアを本拠地として宣教旅行を行った。「弟子たちが神の導きによってクリスチャンと呼ばれたのは,アンティオキアが最初だった」。(使徒 11:26)シリアのアンティオキアをピシデアのアンティオキア(トルコ中部)という別の町と混同してはならない。その町は使徒 13:14; 14:19,21とテモ二 3:11に出ている。
出来事が起きた順に挙げられている。
1. バルナバとサウロがシリアのアンティオキアから宣教者として遣わされる。パウロの3回の宣教旅行を載せた地図は付録B13参照。(使徒 13:1-3)
2. バルナバとサウロはセレウキアから船でキプロスのサラミスに行く。地元の会堂で神の言葉を広める。(使徒 13:4-6)
3. パフォスで,サウロは記録上初めてパウロと呼ばれる。(使徒 13:6,9)
4. キプロスの執政官代理セルギオ・パウロが信者となる。(使徒 13:7,12)
5. パウロの一行はパンフリアのペルガに着く。ヨハネ・マルコがエルサレムに帰る。(使徒 13:13)
6. パウロとバルナバはピシデアのアンティオキアの会堂で伝道する。(使徒 13:14-16)
7. アンティオキアで多くの人がパウロとバルナバの話を聞きに集まったが,ユダヤ人が2人を迫害する。(使徒 13:44,45,50)
8. パウロとバルナバはイコニオムの会堂で話をする。多くのユダヤ人とギリシャ人が信じるようになる。(使徒 14:1)
9. イコニオムの一部のユダヤ人が兄弟たちに反対し,町の人々が2つに分かれる。ユダヤ人はパウロとバルナバを石打ちにしようとする。(使徒 14:2-5)
10. パウロとバルナバはルカオニアの町ルステラで神々と間違えられる。(使徒 14:6-11)
11. ユダヤ人がアンティオキアやイコニオムからやって来て,ルステラでパウロに激しく反対する。パウロは石打ちにされるが,生き延びる。(使徒 14:19,20前半)
12. パウロとバルナバはデルベで良い知らせを広める。かなり大勢の人々が弟子となる。(使徒 14:20後半,21前半)
13. パウロとバルナバは,ルステラ,イコニオム,アンティオキアに戻り,設立されたばかりの会衆を力づける。会衆ごとに長老たちを任命する。(使徒 14:21後半-23)
14. パウロとバルナバはペルガに戻って神の言葉を広める。アタリアに下る。(使徒 14:24,25)
15. アタリアから船でシリアのアンティオキアに向かう。(使徒 14:26,27)