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アガペー ― 原則に導かれた愛

アガペー ― 原則に導かれた愛

アガペー ― 原則に導かれた愛

アガペーには,原則によって導かれ,それに支配された愛という意味があります。それには,愛情や親愛の気持ちが含まれる場合も含まれない場合もあります。アガペーに愛情や温かさが含まれる場合のあることは多くの章句から明らかです。ヨハネ 3章35節で,イエスは,『父はみ子を愛しておられる[アガパーイ]』と言われました。ヨハネ 5章20節では,『父は子に愛情を持っておられる[フィレイ]』と言われました。言うまでもなく,イエス・キリストに対する神の愛には多大の愛情が伴っています。イエスはまたこう説明されました。『わたしを愛する[アガポーン]人はわたしの父に愛されます[アガペーテーセタイ]。そしてわたしはその人を愛します[アガペーソー]』。(ヨハネ 14:21)み父とみ子のこの愛には,そのような愛を示す人々への優しい愛情が伴っています。エホバの崇拝者たちはエホバとみ子に,また互いに対しても,これと同じような愛を示さなければなりません。―ヨハネ 21:15-17

ですから,原則を重んずるという点で区別されるとはいえ,アガペーに感情が欠如しているというわけではありません。さもなければ,それは冷厳な公正さと変わらないことになります。しかし,それは感情や気持ちに支配されず,決して原則を無視することのない愛です。クリスチャンは,自分が必ずしも愛情や親愛の情を感じない人たちに対しても正しくアガペーを示し,しかもそれらの人々の福祉のためにそうします。(ガラテア 6:10)そして,愛情を感じないとしても,義の原則が許容し,それに導かれた範囲と方法で,そのような仲間の人間に対して同情を抱き,誠実な関心を示します。

しかし,アガペーが原則によって支配される愛を表わすとはいえ,その原則には良いものと悪いものとがあります。悪い原則に導かれて間違ったアガペーを示す場合もあり得ます。例えばイエスはこう言われました。「自分を愛してくれる者を愛した[アガパーテ]からといって,あなた方にとって何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ自分を愛してくれる者を愛するのです。そして,自分によくしてくれる者に善を行なったからといって,あなた方にとっていったい何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ同じことをするのです。また,利息なしで貸したからといって,その人から受け取ることを望んでいるのであれば,あなた方にとって何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ,同じだけ取り戻そうとして,罪人たちに利息なしで貸すのです」。(ルカ 6:32-34)そのような人たちの行動は,『わたしに善いことをせよ,そうすればわたしもあなたに善いことをしよう』という原則に基づいています。

使徒パウロは自分と相並んで働いた人のひとりについてこう述べました。「デマスは今の事物の体制を愛して[アガペーサス]わたしを見捨て(ました)」。(テモテ第二 4:10)デマスは,世に対する愛が物質的な益をもたらすという原則に基づいて世を愛したのでしょう。使徒ヨハネはこう述べました。「人々が光よりむしろ闇を愛した[エーガペーサン]ことです。その業が邪悪であったからです。いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです」。(ヨハネ 3:19,20)闇が彼らの邪悪な業を覆う助けになるという真理あるいは原則のゆえに,このような人たちは闇を愛します。

イエスは,『あなた方の敵を愛しなさい[アガパーテ]』と命じました。(マタイ 5:44)使徒パウロが述べるとおり,神ご自身がこの原則を定めました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛[アガペーン]をわたしたちに示しておられるのです。……わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです」。(ローマ 5:8-10)そのような愛の際立った例は,使徒パウロとなったタルソスのサウロを神が扱われた方法に見られます。(使徒 9:1-16。テモテ第一 1:15)したがって,敵対者を愛するわたしたちの愛は,その愛に何らかの温かさや愛情が伴うかどうかは別として,神によって定められた原則に支配されるべきであり,神のおきてに対する従順のうちに示されるべきです。