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神の辛抱強さ

神の辛抱強さ

神の辛抱強さ

エホバはモーセをホレブ山に登らせ,ご自分の栄光を幾らかお示しになった時,モーセの前でこのように宣言されました。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,愛ある親切を幾千代までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決して(ない)」。(出エジプト記 34:5-7)エホバが怒ることに遅いということに関するこの真理は,モーセ,ダビデ,ナホムなどによっても繰り返し示されました。―民数記 14:18。ネヘミヤ 9:17。詩編 86:15; 103:8。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。ナホム 1:3

辛抱強さはエホバの属性ですが,どんな場合でも愛,公正,知恵,力という神の主要な属性に調和して表わされます。(ヨハネ第一 4:8。申命記 32:4。箴言 2:6。詩編 62:11。イザヤ 40:26,29)まず第一に,公正は神ご自身のみ名にとって不可欠なものです。そのみ名は,宇宙内の他のすべてのものに勝って高められなければなりません。そしてこれは,神の被造物すべての福祉にとっても肝要な事柄です。使徒パウロが説明しているとおり,神のみ名を大いなるものとすることは,エホバが辛抱強くあられる主要な理由の一つとなっています。「そこで,もし神が,ご自分の憤りを表明し,かつご自分の力を知らせようとの意志を持ちながらも,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍び,それによって憐れみの器に対するご自分の栄光の富を知らせようとされたのであれば,どうなのでしょうか。その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの,すなわちわたしたちであり,ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも召されているのです」。(ローマ 9:22-24)神は辛抱強さを働かせて,み名のための民を取り出しておられます。そして彼らによって,全地でご自身を大いなるものとしておられます。―使徒 15:14。コリント第一 3:9,16,17。コリント第二 6:16

神は人類史のごく初めのころに辛抱強さを示されました。最初の人間夫婦の反逆は神の律法に対する違反を生じさせました。しかし神は,直ちに二人を処刑する正当な権利を持っておられたにもかかわらず,そうするのではなく,愛をもって辛抱強さを示されました。それは,まだ生まれていない彼らの子孫のためであり,それらの子孫にとってそのような辛抱強さは何よりも重要な意味がありました(神の辛抱は多くの人にとって救いを意味します[ペテロ第二 3:15])。さらに大切なこととして,神は約束の胤を通してご自分の栄光を大いなるものとすることも考えておられました。(創世記 3:15。ヨハネ 3:16。ガラテア 3:16)また神は,その時に辛抱強さを示されただけではなく,不完全な人間の数千年にわたる歴史を忍びつつ,神との敵対関係にある世に対する処罰を延期しなければならないことをご存じでした。(ヤコブ 4:4)ある人たちは,自分たちに対する神の辛抱強さを誤解し,誤用し,それを愛に富む辛抱と見るよりもむしろ遅さと見ることにより,その目的を逸してきました。―ローマ 2:4。ペテロ第二 3:9

神が古代のイスラエル国民を扱われた方法以上に,神の辛抱強さを明らかにするものはありません。(ローマ 10:21)同国民が離れ落ち,処罰され,悔い改めた後に,神は繰り返し彼らを元のように受け入れられました。彼らは神の預言者たちを殺し,最終的には神ご自身のみ子を殺しました。また,イエスと使徒たちが行なった良いたよりを宣べ伝える業に反対して闘いました。しかし神の辛抱強さは無駄にはなりませんでした。忠実を証明した残りの者がいたのです。(イザヤ 6:8-13。ローマ 9:27-29; 11:5)神はそのような忠実な人たちの一部を用いて,霊感のもとにご自分の言葉を書き記させました。(ローマ 3:1,2)神がお与えになった律法は,全人類が罪人であって請け戻してくださる方を必要としていることを示すと共に,贖いの代価として自分の命を与え,王としての高い立場に高められる方を指し示しました。(ガラテア 3:19,24)その王国とキリストの祭司職の型が備えられ(コロサイ 2:16,17。ヘブライ 10:1),わたしたちが従うべき例や避けるべき例が示されました。(コリント第一 10:11。ヘブライ 6:12。ヤコブ 5:10)これらはみな人間にとって,永遠の命を得る上で欠かすことのできない事柄です。―ローマ 15:4。テモテ第二 3:16,17

エホバは永久に辛抱強さを示されるのではない

その一方で,神が辛抱強さを示されるのは,それが公正や義や知恵に調和している場合に限られます。悪い状況や刺激的な状況が存在するときに辛抱強さが示されるという事実は,その背後に,悪い状況に関係する人々が変化して良くなるための機会を与える意図があることを示しています。そのような変化が生じる希望はないと判断されるところまで事態が進んだ場合,辛抱強さを示し続けるとすれば,公正と義に反することになります。そのとき神は知恵をもって行動し,悪い状況を除き去られます。神の辛抱は終わるのです。

神の側のこの堪忍と,その堪忍が終わることを示す一つの例は,神が大洪水前の人類を扱われた方法に見ることができます。嘆かわしい状況が存在したため,神はこう言われました。「わたしの霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるからだ。したがってその日数は百二十年となる」。(創世記 6:3)後にイザヤは,イスラエルがエホバの辛抱強さを誤用したことについて,「しかし,彼らは反逆し,その聖霊に痛みを覚えさせた。そこで,神は彼らの敵に変じ,自ら彼らと戦われた」と述べました。―イザヤ 63:10。使徒 7:51と比較してください。

そのような理由で,クリスチャンは「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸する」ことがないようにしてください,と懇願されています。(コリント第二 6:1)クリスチャンは「神の聖霊を悲しませる[憂えさせる]ことのないようにしなさい」と助言されています。(エフェソス 4:30,行間)また,「霊の火を消してはなりません」。(テサロニケ第一 5:19)さもないとクリスチャンは事実上神の霊を踏みにじって,神の霊に対する罪と冒とくにまで進んでしまうかもしれません。その場合,悔い改めや許しはなく,滅びだけが待ち受けています。―マタイ 12:31,32。ヘブライ 6:4-6; 10:26-31