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読者からの質問

読者からの質問

読者からの質問

どのような場合には,バプテスマを受け直すことも考えられますか。

バプテスマを受けた人でも,場合によっては,自分の受けたバプテスマは有効だったのだろうかと思い,バプテスマを受け直すことを考えるかもしれません。例えば,バプテスマを受ける時に,すでに有効なバプテスマを受けた人なら排斥される理由となったであろう生活や行ないをひそかにしていた,という場合があります。そのような状況で神に献身することはできるでしょうか。非聖書的な行ないをやめていなかったのであれば,エホバに正しく献身できる立場にはなかったはずです。ですから,そのような重大な問題を克服しないうちにバプテスマを受けた人であれば,バプテスマを受け直す必要性について考えるのはふさわしいことでしょう。

では,バプテスマを受けた時には罪を習わしにしていなかったものの,後に悪行を犯して審理委員会にかけられる人の場合は,どうでしょうか。その人は聴聞会の際に,『自分はバプテスマを受ける時,その意味を十分に理解していなかったので,あのバプテスマは本当に有効なものではなかった』と主張するかもしれません。長老たちは,どんな悪行者との会合の際にも,当人の受けたバプテスマについて疑問を提起したり,当人に自分の献身とバプテスマを有効だと感じているかどうか尋ねたりすべきではありません。その人はバプテスマの意義についての聖書に基づく話を聴き,献身とバプテスマに関する質問に肯定の答えをしました。そしてそのあと,水着に着替えて,全身を水に浸されたのです。ですから,その人が自分のしていることの重大性を十分に理解していた,と信じるのは道理にかなったことです。それで,長老たちはその人を,バプテスマを受けた人として扱うでしょう。

その人が自分のバプテスマの有効性を問題にするなら,長老たちは,再浸礼に関する事柄が詳しく論じられている,「ものみの塔」誌,1960年3月1日号(英語),159-160ページ,および1964年6月15日号,375-378ページに当人の注意を向けることもできます。ある特定の事情(聖書について十分理解せずにバプテスマを受けた,などの事情)のゆえにバプテスマを受け直すかどうかは,個人的に決める事柄です。

クリスチャンは,だれかと同居する場合,どんな要素を考慮するべきですか。

だれしも住まいを必要とします。しかし今日,多くの人は自分の家を持っていません。個人の経済的な事情,健康上の問題,あるいは他の要素のゆえに,親戚も含め数世帯が一緒に生活する必要に迫られる場合があります。世界には,大勢の親族がたった一つの部屋で暮らし,プライバシーなどほとんどない,という地域もあります。

エホバの組織が,世界じゅうの会衆のすべての人のために,どんな住居がふさわしいのかについて,あれこれ規則を設けることはありません。クリスチャンは,自分たちの同居の仕方が神に受け入れられるものかどうかを見極めるために,聖書の諸原則に照らして考えるよう勧められています。では,どんな原則があるでしょうか。

第一に考慮すべきなのは,他の人と同居することによって自分や自分の霊性がどんな影響を受けるかという点です。どんな人と同居しますか。その人はエホバの崇拝者ですか。聖書の規準に調和した生き方をしていますか。「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです」と使徒パウロは書いています。―コリ一 15:33

聖書の説明によると,エホバは淫行や姦淫を非としておられます。(ヘブ 13:4)ですから,結婚していない男女があたかも夫婦であるかのように一緒に暮らし,同じ部屋で寝起きすることになるとしたら,そのような同居の仕方はどんなものであれ,神に受け入れられないことは明らかです。クリスチャンは,不道徳が容認される場所にとどまりたいとは思わないはずです。

さらに聖書は,神の恵みを受けたいと思う人すべてに,「淫行から逃げ去りなさい」とも勧めています。(コリ一 6:18)ですから,クリスチャンにとって,不道徳な行ないへの誘惑となりかねないような同居の仕方を避けるのは賢明なことです。例えば,幾人かのクリスチャンが同じ家で寝起きする,という状況を考えてみてください。そのような同居の仕方によって,危うい状況が生じる可能性はあるでしょうか。普段は一緒にいる人たちがちょっと外出して,夫婦ではない男女が急に二人きりになってしまったら,どうでしょうか。同様に,互いに対して関心を抱いている独身の男女が同じ家に住むのも,道徳的に危険なことです。そのような状況は避けるのが賢明です。

また,離婚した夫婦が同じ家に住み続けるのも,ふさわしいことではありません。二人はそれまで親密な間柄だったので,つい不道徳な行ないをしてしまうことにもなりかねないからです。―箴 22:3

最後に,しかし同じく重要なこととして,地域社会がその決定をどう見るか,という点も考慮に入れるべきです。あるクリスチャンが妥当と判断したものの,地域社会で芳しくないうわさが立つような同居の仕方は,問題となりかねません。わたしたちは自分の行ないのためにエホバのみ名が悪く言われることを決して望みません。パウロはそのことをこう言い表わしました。「ユダヤ人にも,またギリシャ人にも,そして神の会衆に対しても,つまずきのもととならないようにしなさい。わたしがすべての事においてすべての人を喜ばせ,自分の益ではなく多くの人の益を求め,こうして彼らが救われるようにしているのと同様です」。―コリ一 10:32,33

エホバの義にかなった規準を支持したいと思う人にとって,住まいや同居の仕方をふさわしいものとするのは,容易なことではないかもしれません。しかし,クリスチャンは,「何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめ」なければなりません。家族内でみだらなことは何も起きていない,と確信している必要があります。(エフェ 5:5,10)そのためには,神の導きを祈り求め,互いの身体的また道徳的な福祉とエホバの良い名を守るよう力を尽くすべきでしょう。