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ライフ​・​ストーリー

父を失い ― 父を得る

父を失い ― 父を得る

わたし​の​父​は​1899​年,オーストリア​の​グラーツ​で​生ま​れ​まし​た。第​一​次​世界​大戦​の​時​に​は​若者​だっ​た​父​は,1939​年​に​第​二​次​世界​大戦​が​勃発​する​と,すぐ​に​ドイツ​軍​に​徴兵​さ​れ​まし​た。そして​1943​年,ロシア​で​戦死​し​まし​た。悲しい​こと​です​が,わたし​は​その​よう​に​し​て​父​を​失い​まし​た。当時​まだ​2​歳​だっ​た​わたし​は,父​の​こと​を​全く​覚え​て​い​ませ​ん。学校​へ​行く​よう​に​なっ​て,ほか​の​子​たち​に​は​父親​が​いる​の​に​自分​に​は​い​ない​こと​が​分かり,とても​寂しく​思い​まし​た。しかし​10​代​の​時,死ぬ​こと​が​ない​天​の​父​に​つい​て​知り,慰め​を​得​まし​た。―ハバ 1:12

ボーイスカウト​で​の​経験

子ども​の​ころ

7​歳​の​時,ボーイスカウト​に​入り​まし​た。ボーイスカウト​は,イギリス​軍​の​中将​だっ​た​ロバート​・​スティーブンソン​・​スミス​・​ベーデン‐パウエル​が,1908​年​に​英国​で​設立​し​た​世界​的​な​団体​です。わたし​の​よう​な​年齢​層​の​低い​子ども​たち​の​ため​に,1916​年​に​は​ウルフカブ(カブスカウト)が​設立​さ​れ​まし​た。

わたし​は​週末​に​田舎​で​の​キャンプ​に​参加​する​の​が​好き​でし​た。キャンプ​で​は,テント​で​寝​たり,みんな​で​おそろい​の​服​を​着​たり,ドラム​の​音​に​合わせ​て​行進​し​たり​し​まし​た。仲間​たち​と​一緒​に​時間​を​過ごす​の​が​とても​楽しく,夜​に​キャンプファイア​を​囲ん​で​歌​を​歌っ​たり,森​の​中​で​ゲーム​を​し​たり​し​まし​た。自然​に​つい​て​も​多く​の​こと​を​学び,創造​者​の​み手​の​業​に​親しむ​機会​に​なり​まし​た。

ボーイスカウト​で​は,毎日​善い​行ない​を​する​こと​が​勧め​られ​て​い​ます。それ​が​ボーイスカウト​の​モットー​です。また,「備えよ​常​に」と​言っ​て​挨拶​し​ます。わたし​は,こう​し​た​こと​に​引き付け​られ​まし​た。わたしたち​の​団​に​は​100​人​を​超える​子ども​たち​が​おり,およそ​半分​は​カトリック​で,もう​半分​は​プロテスタント​でし​た。仏教​徒​の​子​も​一​人​い​まし​た。

1920​年​以降,ボーイスカウト​の​国際​的​な​集会​で​ある​ジャンボリー​が,数​年​に​一度​開催​さ​れ​て​い​ます。わたし​は,1951​年​8​月​に​オーストリア​の​バート​・​イシュル​で​行なわ​れ​た​第​7​回​世界​スカウトジャンボリー​と,1957​年​8​月​に​英国​の​バーミンガム​の​近く​の​サットン​・​パーク​で​行なわ​れ​た​第​9​回​世界​スカウトジャンボリー​に​参加​し​まし​た。二​度​目​に​出席​し​た​ジャンボリー​に​は,85​の​国​と​地域​から,約​3万3,000​人​の​ボーイスカウト​が​参加​し​まし​た。また,この​ジャンボリー​に​来​た​およそ​75万​人​の​中​に​は,英国​の​エリザベス​女王​も​い​まし​た。この​よう​な​集まり​は,わたし​に​とっ​て​世界​的​な​兄弟​関係​の​よう​でし​た。しかし,間​も​なく​はるか​に​優れ​た​霊的​な​兄弟​関係​を​得る​こと​に​なる​と​は,思い​も​より​ませ​ん​でし​た。

エホバ​の​証人​に​初めて​会う

パティシエ​の​ルディ​・​チゲル​から,初めて​証言​を​受ける

1958​年​の​春,わたし​が​オーストリア​の​グラーツ​に​ある​グランド​・​ホテル​・​ヴィースラー​で,ウェイター​の​実習​期間​を​終える​時​の​こと​です。仕事​仲間​で,皆​から​ルディ​と​呼ば​れ​て​い​た​パティシエ​の​ルドルフ​・​チゲル​から​非​公式​の​証言​を​受け​まし​た。わたし​は​その​時​まで,真理​に​つい​て​聞い​た​こと​が​あり​ませ​ん​でし​た。ルディ​は​最初​に​三位一体​の​教理​を​取り上げ,三位一体​は​聖書​の​教え​で​は​ない,と​言い​まし​た。わたし​は​反論​し,彼​の​誤り​を​証明​し​たい​と​思い​まし​た。彼​と​は​仲​が​良かっ​た​の​で,カトリック​教会​に​戻っ​て​来る​よう​説得​し​まし​た。

ルディ​は,わたし​に​聖書​を​プレゼント​し​よう​と​し​まし​た​が,わたし​が,カトリック​の​聖書​しか​いら​ない,と​言っ​た​の​で,その​聖書​を​持っ​て​来​て​くれ​まし​た。わたし​は​読み​始め​まし​た​が,ものみの塔​協会​の​パンフレット​が​は​さん​で​ある​こと​に​気づき,嫌​な​気分​に​なり​まし​た。正しい​よう​に​見え​て​も​実​は​そう​で​は​ない​もの​が​多い​から​です。それでも,聖書​の​討議​に​は​応じ​まし​た。ルディ​は​洞察​を​示し,協会​の​印刷​物​は​使い​ませ​ん​でし​た。およそ​3​か月​間,時々​ルディ​と​聖書​の​討議​を​し​まし​た​が,それ​が​夜遅く​まで​続く​こと​も​よく​あり​まし​た。

郷里​の​グラーツ​の​ホテル​で​の​実習​期間​が​終わる​と,母​は​わたし​が​ホテル​・​マネジメント​・​スクール​で​さらに​教育​を​受け​られる​よう,費用​を​出し​て​くれ​まし​た。その​学校​は,アルプス​の​谷合​の​町​バート​・​ホフガスタイン​に​あり,わたし​は​そこ​へ​引っ越し​まし​た。この​学校​は​バート​・​ホフガスタイン​の​グランド​・​ホテル​と​提携​し​て​い​た​の​で,時折​その​ホテル​で​働い​て​経験​を​積み​まし​た。

二​人​の​宣教​者​の​姉妹​の​訪問​を​受ける

1958​年​から​聖書​研究​を​司会​し​て​くれ​た​イルゼ​・​ウンテルデルフェル​と​エルフリーデ​・​レール

ルディ​が​わたし​の​新しい​住所​を​ウィーン​支部​に​知らせ​た​の​で,支部​は​それ​を​宣教​者​の​二​人​の​姉妹,イルゼ​・​ウンテルデルフェル​と​エルフリーデ​・​レール​ *に​転送​し​まし​た。ある​日,ホテル​の​フロント​から​連絡​が​あり,外​の​車​の​中​に​いる​二​人​の​女性​が,わたし​と​話​が​し​たい,と​の​こと​でし​た。全く​聞き覚え​の​ない​名前​だっ​た​の​で​戸惑っ​た​もの​の,一応​会い​に​行き​まし​た。後​に​なっ​て​分かっ​た​こと​です​が,二​人​は​エホバ​の​証人​と​し​て,禁令​が​課さ​れ​て​い​た​ナチ​政権​下​の​ドイツ​で,運搬​係​の​奉仕​を​し​て​い​まし​た。第​二​次​大戦​前​に​は,ドイツ​の​秘密​警察(ゲシュタポ)に​捕まっ​て​リヒテンブルク​強制​収容​所​に​送ら​れ,大戦​中​に,ベルリン​に​近い​ラベンスブリュック​強制​収容​所​へ​移さ​れ​た,と​いう​こと​です。

わたし​は,母​と​同じ​ぐらい​の​年齢​だっ​た​姉妹​たち​に​敬意​を​抱き​まし​た。それで,二​人​の​時間​を​無駄​に​させ​たく​あり​ませ​ん​でし​た。姉妹​たち​と​数​週​間​ない​し​数​か月​話し合っ​た​後​に,やめ​たい​と​言う​なら,その​時間​は​無駄​に​なっ​て​しまう​でしょ​う。そこで​わたし​は​姉妹​たち​に,使徒​継承​と​いう​カトリック​の​教理​に​つい​て​述べ​て​いる​聖句​の​リスト​を​持っ​て​来​て​くれる​よう,お願い​し​まし​た。その​リスト​から​司祭​と​話し合う​つもり​だ,と​いう​こと​も​伝え​まし​た。そう​すれ​ば​何​が​真理​な​の​か​が​分かる,と​考え​た​の​です。

天​の​まこと​の​聖​なる​父​に​つい​て​学ぶ

カトリック​教会​は,マタイ 16​章​18,19​節​に​ある​イエス​の​言葉​を,使徒​継承​の​教え​の​根拠​と​し​て​い​ます。また,聖​なる​父​と​呼ば​れ​て​いる​教皇​が​教理​上​の​事柄​に​関し​て​宣言​を​し​た​場合,決して​誤る​こと​が​ない,と​唱え​て​い​ます。その​こと​を​信じ​て​い​た​わたし​は​こう​考え​まし​た。「もし​教皇​が​教理​上​の​事柄​に​関し​て​不可謬​で​あり,三位一体​が​正しい​と​宣言​し​た​の​で​あれ​ば,三位一体​は​当然​正しい​はず​だ。しかし,教皇​が​不可謬​で​ない​なら,その​教理​も​誤り​か​も​しれ​ない」。多く​の​カトリック​教徒​が​使徒​継承​を​最も​重要​な​教え​と​考え​て​いる​の​も,驚く​に​は​当たり​ませ​ん。他​の​カトリック​の​教理​が​正しい​か​どう​か​は,使徒​継承​の​教え​に​依存​し​て​いる​から​です。

わたし​が​司祭​の​もと​を​訪れ​て​質問​し​た​ところ,司祭​は​答え​られ​ませ​ん​でし​た。ただ​本棚​から​使徒​継承​の​教え​に​つい​て​書か​れ​た​本​を​取り出し,家​に​帰っ​て​読み​なさい,と​言い​まし​た。わたし​は​その​通り​に​し​まし​た​が,質問​は​増える​ばかり​で,それ​を​もう​一度​司祭​の​ところ​に​持っ​て​行き​まし​た。司祭​は​わたし​の​質問​に​答え​られ​ず,こう​言い​まし​た。「わたし​は​君​を​納得​さ​せ​られ​ない​し,君​も​わたし​の​こと​を​納得​さ​せる​こと​は​でき​ない。……帰っ​て​くれ​た​まえ」。司祭​は​もう,わたし​と​話そ​う​と​は​し​ませ​ん​でし​た。

この​こと​が​あっ​て,わたし​は​宣教​者​の​姉妹​たち​と​聖書​を​研究​する​こと​に​し​まし​た。二​人​は​天​の​まこと​の​聖​なる​父,エホバ​神​に​つい​て​多く​の​こと​を​教え​て​くれ​まし​た。(ヨハ 17:11)当時​この​地域​に​は​会衆​が​一つ​も​なかっ​た​の​で,姉妹​たち​は​関心​を​示し​た​家族​の​家​で​集会​を​司会​し​まし​た。出席​者​は​ごく​わずか​でし​た。指導​の​任​に​当たる​バプテスマ​を​受け​た​兄弟​が​まだ​い​なかっ​た​ため,この​二​人​の​姉妹​が​集会​の​ほとんど​の​資料​を​討議​の​かたち​で​扱い​まし​た。時​に​は​別​の​場所​を​借り​て,他​の​町​の​兄弟​に​公開​講演​を​し​て​もらう​こと​も​あり​まし​た。

宣教​を​始める

わたし​は​姉妹​たち​と​1958​年​10​月​に​聖書​研究​を​始め,3​か月​後​の​1959​年​1​月​に​バプテスマ​を​受け​まし​た。バプテスマ​を​受ける​前,宣べ伝える​業​が​どの​よう​に​行なわ​れ​て​いる​の​か​を​知り​たい​の​で,家​から​家​の​奉仕​に​同行​し​て​も​いい​です​か,と​尋ね​まし​た。(使徒 20:20)実際​に​付い​て​行っ​た​後,自分​が​奉仕​する​区域​を​持っ​て​も​よい​か​と​聞い​た​ところ,ある​村​を​割り当て​て​くれ​まし​た。わたし​は​一​人​で​その​村​に​行っ​て​家​から​家​に​宣べ伝え,関心​の​ある​人​たち​を​再​訪問​し​まし​た。奉仕​を​一緒​に​行なっ​た​最初​の​兄弟​は,巡回​監督​です。

1960​年,マネジメント​・​スクール​で​の​教育​を​終え​た​わたし​は,親族​が​真理​を​学べる​よう​援助​し​たい​と​思い,郷里​に​戻り​まし​た。これ​まで​真理​に​入っ​た​親族​は​い​ませ​ん​が,関心​を​示す​よう​に​なっ​た​人​は​い​ます。

全​時間​奉仕

20​代​の​ころ

1961​年​に,開拓​奉仕​を​励ます​支部​から​の​手紙​が​各​会衆​で​読ま​れ​まし​た。独身​で​健康​だっ​た​わたし​は,開拓​奉仕​を​行なわ​ない​訳​に​は​いか​ない,と​思い​まし​た。巡回​監督​の​クルト​・​クーン​に,「車​は​開拓​奉仕​に​役立つ​の​で,あと​数​か月​働い​て​買お​う​と​思っ​て​いる​の​です​が,どう​思わ​れ​ます​か」,と​相談​し​まし​た。兄弟​は​こう​言い​まし​た。「イエス​や​使徒​たち​は,全​時間​奉仕​を​行なう​ため​に​車​が​必要​でし​た​か」。それ​で​決心​が​つき​まし​た。できる​だけ​早く​開拓​奉仕​を​始める​方法​を​考え​まし​た。ホテル​の​レストラン​で​毎週​72​時間​働い​て​い​た​の​で,まず​仕事​を​調整​する​必要​が​あり​まし​た。

わたし​は​上司​に,仕事​を​週​60​時間​に​し​て​いただけ​ます​か,と​お願い​し​まし​た。上司​は​この​申し出​を​聞い​て​くれ​た​だけ​で​なく,給料​は​そのまま​に​し​て​くれ​まし​た。少し​たっ​て​から,48​時間​で​も​よい​か​と​お願い​し​た​ところ,その​通り​に​し​て​くれ​まし​た。給料​も​そのまま​でし​た。次​に,週​に​36​時間​か,週​に​六日​間​1​日​6​時間​ずつ​で​も​よい​か,と​お願い​し​た​ところ,受け入れ​て​くれ​まし​た。驚い​た​こと​に,それでも​給料​は​変わり​ませ​ん​でし​た。上司​は​わたし​に​辞め​て​ほしく​ない​と​思っ​て​い​た​よう​です。この​よう​に​仕事​が​調整​でき​た​の​で,開拓​奉仕​を​始め​まし​た。当時​の​要求​時間​は​月​に​100​時間​でし​た。

4​か月​後,特別​開拓​者​と​し​て​任命​さ​れ,ケルンテン​州​の​シュピッタール​・​アン​・​デア​・​ドラウ​と​いう​町​の​小さな​会衆​に​割り当て​られ​まし​た。その​会衆​で,会衆​の​僕​と​し​て​も​奉仕​する​よう​に​なり​まし​た。当時​の​特別​開拓​者​の​要求​時間​は​月​に​150​時間​でし​た。一緒​に​働く​開拓​者​は​い​ませ​ん​でし​た​が,宣教​面​で​会衆​の​僕​の​補佐​だっ​た​ゲルトルーデ​・​ローブナー​姉妹​が​助け​て​くれ​まし​た。 *

割り当て​が​次々​に​変わる

1963​年,巡回​奉仕​に​招か​れ​まし​た。重い​スーツケース​を​持っ​て,列車​で​移動​する​時​も​あり​まし​た。車​を​所有​し​て​いる​兄弟​は​ほとんど​おら​ず,駅​まで​迎え​に​来る​こと​が​できる​人​は​い​ませ​ん​でし​た。わたし​は,タクシー​に​乗っ​て“格好​を​つける”よう​な​こと​は​し​たく​なかっ​た​の​で,宿舎​まで​歩い​て​行く​よう​に​し​まし​た。

1965​年​に​は,ギレアデ​学校​第​41​期​クラス​に​招待​さ​れ​まし​た。同級​生​の​多く​も​独身​でし​た。卒業​式​で,故郷​の​オーストリア​で​巡回​奉仕​を​続ける​よう​割り​当て​られ,とても​驚き​まし​た。しかし,米国​を​離れる​前​に​巡回​監督​と​4​週​間​奉仕​する​よう​求め​られ​まし​た。わたし​は,巡回​監督​の​アンソニー​・​コンティ​と​共​に​奉仕​できる​こと​に​深く​感謝​し​まし​た。この​兄弟​は​愛情​深い​人​で,野外​奉仕​を​愛し,しかも​非常​に​巧み​でし​た。わたしたち​は,ニューヨーク​市​の​北​の​コーンウォール​で​奉仕​し​まし​た。

結婚​式​当日

オーストリア​に​戻っ​た​わたし​は,割り当て​られ​た​巡回​区​で,独身​の​魅力​的​な​トーベ​・​メレテ​と​いう​名​の​姉妹​に​出会い​まし​た。5​歳​の​時​から​真理​の​うち​に​育て​られ​た​姉妹​です。兄弟​たち​から,お二人​は​どう​やっ​て​知り合っ​た​の​です​か,と​聞か​れる​と,わたしたち​は​冗談​めかし​て,「支部​の​取り決め​だっ​た​ん​です​よ」と​言い​ます。わたしたち​は​知り合っ​て​から​1​年​後​の​1967​年​4​月​に​結婚​し,旅行​する​奉仕​を​続ける​こと​が​でき​まし​た。

翌年,エホバ​が​過分​の​ご親切​に​より​わたし​を​霊的​な​子​と​し​て​養子​に​し​て​くださっ​た,と​いう​こと​が​分かり​まし​た。ローマ 8​章​15​節​で​述べ​られ​て​いる,「『アバ,父​よ!』と​叫ぶ」他​の​すべて​の​兄弟​たち​と​同じく,わたし​も​天​の​父​と​の​特別​な​関係​に​入り​まし​た。

メレテ​と​わたし​は​1976​年​まで,巡回​と​地域​の​奉仕​を​続け​まし​た。冬​の​季節​に​は,氷点下​の,暖房​の​ない​寝室​で​眠る​こと​も​あり​まし​た。ふと​目​が​覚める​と,吐く​息​で​毛布​の​端​が​白く​凍っ​て​いる​こと​さえ​あり​まし​た。そこで,夜​の​寒さ​に​耐え​られる​よう,小さな​電気​ストーブ​を​持ち運ぶ​こと​に​し​まし​た。幾つ​か​の​場所​で​は,夜​に​隙き間​だらけ​の​屋外​トイレ​に​行く​ため,雪​の​中​を​歩き​まし​た。また,自分​たち​の​家​が​なかっ​た​の​で,滞在​し​て​い​た​家​に​月曜​日​まで​とどまり,火曜​日​の​朝​に​なる​と​次​の​会衆​へ​移動​し​まし​た。

妻​は​わたし​に​とっ​て​大きな​支え​です。これ​まで​ずっ​と​そう​でし​た。その​こと​を​うれしく​思い​ます。野外​奉仕​が​大好き​で,奉仕​に​行く​よう​励まし​た​こと​は​一度​も​あり​ませ​ん。また,友人​を​大切​に​し,深い​気遣い​を​示し​ます。こう​し​た​妻​の​特質​は,本当​に​大きな​助け​に​なっ​て​き​まし​た。

1976​年,ウィーン​の​オーストリア​支部​に​招か​れ,支部​委員​に​任命​さ​れ​まし​た。当時​の​支部​は,東欧​諸国​の​宣べ伝える​業​を​監督​し​て​おり,そう​し​た​国々​に​注意深く​文書​を​発送​する​仕事​を​組織​し​て​い​まし​た。この​分野​で​責任​を​負っ​て​い​た​の​が​ユルゲン​・​ルンデル​で,進取​の​気性​を​大いに​発揮​し​まし​た。わたし​は​兄弟​と​共​に​働く​こと​が​でき,後​に​東欧​の​10​の​言語​へ​の​翻訳​を​監督​する​こと​に​なり​まし​た。ユルゲン​と​妻​の​ゲルトルーデ​は​現在,特別​開拓​者​と​し​て​ドイツ​で​忠実​に​奉仕​し​て​い​ます。支部​は​1978​年​から​写真​植字​を​始め,小型​の​オフセット​印刷​機​で​6​つ​の​言語​の​雑誌​を​印刷​する​よう​に​なり​まし​た。また,様々​な​国​の​予約​購読​者​に​雑誌​を​送る​こと​も​し​まし​た。こう​し​た​仕事​の​責任​を​担っ​て​い​た​の​が,オットー​・​クグリッチ​です。兄弟​は​現在​妻​の​イングリート​と​共​に,ドイツ​に​ある​支部​で​奉仕​し​て​い​ます。

オーストリア​で​は,街路​伝道​など​様々​な​証言​を​楽しむ​こと​が​でき​た

東欧​の​兄弟​たち​は,自国​で​謄写​版​を​使っ​たり​マイクロフィルム​から​複製​し​たり​し​て​文書​を​生産​し​て​い​まし​た。しかし,国外​から​の​援助​が​必要​でし​た。エホバ​は​兄弟​たち​の​活動​を​守ら​れ​まし​た。支部​の​わたしたち​は,禁令​が​長く​続く​中​で​忠実​に​奉仕​する​兄弟​たち​を​愛する​よう​に​なり​まし​た。

ルーマニア​へ​の​特別​な​訪問

1989​年,わたし​は​統治​体​の​成員​セオドア​・​ジャラズ​兄弟​に​同行​し​て​ルーマニア​を​訪れ​まし​た。その​目的​は,大勢​の​兄弟​たち​が​組織​に​戻っ​て​来る​よう,援助​を​差し伸べる​こと​でし​た。1949​年​以降,それら​の​兄弟​たち​は​様々​な​理由​で​組織​と​の​つながり​を​絶っ​て​独自​の​会衆​を​設立​し​て​い​まし​た。それでも,引き続き​伝道​や​バプテスマ​を​行なっ​て​おり,組織​に​とどまっ​て​い​た​兄弟​たち​と​同様,クリスチャン​の​中立​ゆえに​投獄​さ​れ​て​い​まし​た。ルーマニア​は​依然​と​し​て​禁令​下​に​あっ​た​の​で,わたしたち​は​パムフィル​・​アルブ​兄弟​の​自宅​で​秘密​裏​に​会合​を​持ち​まし​た。そこ​に​は​アルブ​兄弟​と​主​だっ​た​長老​たち​が​ほか​に​4​人,そして​ルーマニア​の​国内​委員​会​の​代表​者​たち​が​い​まし​た。オーストリア​から​連れ​て​来​た​通訳​者​の​ロルフ​・​ケルナー​も​一緒​でし​た。

会合​二​日​目​の​夜,アルブ​兄弟​は​4​人​の​仲間​の​長老​たち​に,「いま​組織​に​戻ら​なけれ​ば,二​度​と​チャンス​は​ない​か​も​しれ​ない」と​述べ​て​説得​し​まし​た。結果​と​し​て,およそ​5,000​人​の​兄弟​たち​が​組織​に​戻っ​て​来​まし​た。エホバ​は​勝利​を​収め,サタン​は​手痛い​一撃​を​受け​た​の​です。

1989​年​の​終わり​ごろ,東欧​の​共産​主義​が​崩壊​する​前​の​こと​です​が,妻​と​わたし​は​ニューヨーク​の​世界​本部​で​奉仕​する​よう,統治​体​から​要請​さ​れ​まし​た。これ​に​は​本当​に​驚かさ​れ​まし​た。ブルックリン​・​ベテル​で​の​奉仕​を​始め​た​の​は​1990​年​7​月​です。1992​年,わたし​は​統治​体​の​奉仕​委員​会​の​援助​者​に​任命​さ​れ,1994​年​7​月​から​統治​体​の​成員​と​し​て​奉仕​する​特権​に​あずかっ​て​い​ます。

過去​を​回想​し,将来​に​目​を​向ける

妻​と​共​に。ニューヨーク​の​ブルックリン​で

ホテル​の​ウェイター​と​し​て​働い​た​の​は​遠い​昔​の​こと​に​なり​まし​た。今​は​世界​中​の​兄弟​たち​の​ため​に​霊的​食物​を​準備​し​て​分配​する​業​に​加わっ​て​い​ます。(マタ 24:45‐47)50​年​余り​の​特別​全​時間​奉仕​を​振り返る​と,エホバ​が​世界​的​な​兄弟​関係​を​祝福​し​て​くださっ​て​いる​こと​に,深い​感謝​と​喜び​を​感じ​ます。国際​大会​に​出席​する​の​は​わたし​に​とっ​て​喜び​です。大会​で​は,天​の​父​エホバ​と​聖書​の​真理​に​つい​て​学ぶ​こと​が​強調​さ​れる​から​です。

わたし​は,さらに​幾百万​の​人々​が​聖書​を​研究​し,真理​を​受け入れ,世界​的​な​兄弟​関係​の​うち​に​一致​し​て​エホバ​に​仕える​よう,祈っ​て​やみ​ませ​ん。(ペテ​一 2:17; 脚注)天​から​地上​の​復活​を​見,そして,ついに​自分​の​父親​を​見いだせる​こと​を​心待ち​に​し​て​い​ます。わたし​の​父​と​母​また​親族​が​皆,楽園​で​エホバ​を​崇拝​する​よう​に​なる​こと,それ​も​わたし​の​願い​です。

天​から​地上​の​復活​を​見,そして,ついに​自分​の​父親​を​見いだせる​こと​を​心待ち​に​し​て​い​ます

^ 15節 「ものみの塔」1980​年​2​月​1​日​号に​出​て​いる,二​人​の​ライフ​・​ストーリー​を​参照。

^ 27節 現在,会衆​の​僕​は​長老​団​の​調整​者,会衆​の​僕​の​補佐​は​書記​に​相当​し​ます。