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古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部

古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部

古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部

粘土板文書は実際に何を示しているか

この記事は,「ものみの塔」誌の前の号の記事の続きです。2部から成るこれらの記事は,古代エルサレムが滅ぼされた年代に関する学術的な質問を取り上げ,一部の読者を悩ませてきた疑問について徹底的に調査し,聖書に基づく答えを提示します。

第1部のまとめ:

■ 一般の歴史家は,エルサレムが滅ぼされたのは西暦前587年であった,と述べている。

■ 聖書に基づく年代計算によれば,その滅びは西暦前607年に起きた。

■ 一般の歴史家の結論は,古典史家たちの書いたものやプトレマイオスの王名表に基づいている。

■ 古典史家たちの書いたものの中には,重大な誤りが含まれているものがあり,粘土板の記録と必ずしも一致していないものもある。 a

聖書には,とりこにされたユダヤ人がバビロンに流刑にされて,「主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し,……七十年の年月が満ちた」と記されています。では,ユダヤ人はいつ解放されたでしょうか。「ペルシアの王キュロスの[在位]第一年」です。(歴代第二 36:21,22,「新共同訳」,共同訳聖書実行委員会)聖書中の歴史も一般の歴史も,この流刑は,キュロスがバビロンを征服してユダヤ人を自由にし,ユダヤ人が西暦前537年にエルサレムに帰還した時に終わった,という点で一致しています。聖書はその流刑が70年間続いたとはっきり述べているので,流刑は西暦前607年に始まったことになります。

しかし,ほとんどの学者はエルサレムの滅びを西暦前587年としています。そうだとすれば,流刑は50年間だけだったことになります。なぜそう結論づけるのでしょうか。それは,ネブカドネザル2世とその後継者たちについての詳細を記している,古代の楔形文字の文書に基づいて計算しているからです。1 それらの文書の多くは,エルサレムの滅びの期間中かその滅びに近い時代の人によって書かれました。それにしても,西暦前587年という年代を導き出す計算は,一体どれほど信頼できるものでしょうか。それらの文書は実際にどんなことを示しているでしょうか。

そうした疑問の答えを知るために,学者たちがしばしば典拠とする3種類の文書,すなわち(1)バビロニア年代記,(2)商取引関係の粘土板,(3)天文学関係の粘土板について考えてみましょう。

バビロニア年代記

それは何か。バビロニア年代記とは,バビロニアの歴史における主要な出来事を記録した一連の粘土板のことです。2

専門家は何と言っているか。楔形文字文書研究の権威者の一人であるR・H・サックによると,この年代記は重要な出来事の不完全な記録でしかありません。 b サックは自著の中で,歴史家たちは「実際に何が起きたかを判断したければ,別の資料」を調査しなければならない,と書いています。

文書そのものは何を示しているか。バビロニア年代記に記録されている歴史には幾つもの空白があります。3 下の囲みをご覧ください。)ですから,論理的に言って,そのような不完全な記録に基づく推論はどれほど信頼できるのか,という疑問が生じます。

商取引関係の粘土板

それは何か。新バビロニア期から今に残る商取引関係の粘土板の多くは,受け取りの証書です。それらには,どの王の治世の何年何月何日かが記されました。例えば,ある粘土板には,「バビロンの王ネブカドレザル[ネブカドネザル2世としても知られる]の第11年,ニサン27日に」取り引きが行なわれた,と述べられています。4

ある王が死ぬか退位させられるかして新しい王が王位に就くと,その年の残りの月々は,新王の即位年の月々とみなされました。 c 5 言い換えれば,王権の移行は,バビロニアの暦の上では同じ年のうちになされた,ということです。したがって,新しい支配者の即位年の記されている粘土板は,論理的に言って,前王の治世最後の月が終わってから作成されたものであるはずです。

専門家は何と言っているか。R・H・サックは,新バビロニア時代の商取引関係の粘土板を数多く調査しました。そして1972年には,大英博物館に新たに収蔵された未公開のテキストを調査させてもらった結果,ネブカドネザル2世からその息子アメル・マルドゥク(エビル・メロダクとしても知られる)へと支配が移行した時期に関する以前の結論が「完全に覆された」,と書いています。6 なぜ覆されたのでしょうか。サックは,それまで幾つもの粘土板に基づいて,ネブカドネザル2世が最後の統治年(第43年)の第6の月にもまだ支配していた,と思っていました。ところが,新たに解読された,次期の王アメル・マルドゥクの即位年のものである数々の粘土板は,その同じ年とされていた年の第4の月と第5の月のものだったのです。7 矛盾があったことは明らかです。

文書そのものは何を示しているか。王権の移行した時期に関しては,ほかにも数々の矛盾があります。例えば,ある文書によると,ネブカドネザル2世は,後継者が統治し始めたとされている時から6か月後の,第10の月にもまだ支配していました。8 アメル・マルドゥクからその後継者ネリグリッサルに王権が移行した時期に関しても同じような矛盾があります。9

そうした矛盾に重要な意味があるのはなぜでしょうか。先ほど述べたように,バビロニア年代記に示されている歴史に空白があることからすると,切れ目のない年代記録は残っていないのかもしれません。10 それらの王たちの間に他の王たちが支配した可能性があります。そうであれば,新バビロニア期には幾年か追加されなければならないことになります。ですから,バビロニア年代記も商取引関係の粘土板も,エルサレムの滅びが西暦前587年であったということを確証するための根拠とはなりません。 d

天文学関係の粘土板

それは何か。太陽,月,惑星,恒星などの位置を描写した,楔形文字の粘土板であり,特定の王の在位年といった歴史情報も記されています。例えば,下に示されている天文日誌には,王ムキン・ゼーリの治世の第1年第1の月に起きた月食のことが記録されています。11

専門家は何と言っているか。バビロニア人が,月食の起きる可能性の最も高い時を予測するために,様々な図表や方法を考案していたという点で,専門家たちの意見は一致しています。12

では,バビロニア人は,過去にさかのぼっていつ月食が起きたかを計算することもできたのでしょうか。ジョン・スティール教授はこう述べています。「ごく初期の予測の幾つかは,それが書き記された時に独自の方法で過去にさかのぼって計算したものであった可能性もある」。(斜体は本誌。)13 デービッド・ブラウン教授は,幾つかの天文学的な表に見られる予測の中には近い将来のことを前もって述べたものもあると考えていますが,「西暦前4世紀かそれ以後に書記官たちが逆算したもの」もあり得ることを認めています。14 もし逆算であったとしたら,それらは他の証拠によって裏づけられない限り,絶対に信頼できるとはまず考えられないでしょう。

たとえ月食が特定の日に実際に起きていたとしても,粘土板の筆者がその日の事としている歴史情報は正確だということにはなりません。「編纂者たちは,歴史家ではなく,占星術師であった」と,学者のR・J・ファン・デル・スペクは説明しています。そして,歴史の記録を収めた粘土板の一部を「大まかなもの」と述べ,そのような歴史情報は「慎重に用いる」必要がある,と注意しています。15

文書そのものは何を示しているか。VAT 4956の事例を取り上げましょう。この粘土板の冒頭には,「バビロンの王ネブカドネザルの第37年」と記されています。16 そのあとに,月や惑星が様々な恒星や星座とどんな位置関係にあったかを示す詳細な描写がなされています。また,月食が1回あったことも記されています。学者たちによれば,それらすべての位置関係は西暦前568/567年のものであり,ネブカドネザル2世がエルサレムを滅ぼした,その治世の第18年は,西暦前587年ということになります。しかし,それら天文学的な資料は,本当に西暦前568/567年だけを指しているのでしょうか。

その粘土板では,月食がバビロニアの第3の月シマヌの15日に起きたとされています。確かに,西暦前568年のその月である7月4日(ユリウス暦)に月食がありました。しかし,その時より20年前の西暦前588年7月15日にも月食がありました。17

もし西暦前588年がネブカドネザル2世の第37年であったとしたら,その治世の第18年は西暦前607年になります。まさに,聖書の年代記述がエルサレムの滅ぼされた年としている年です。( 下の年表をご覧ください。)では,VAT 4956には,西暦前607年を裏づける証拠がほかにも含まれているでしょうか。

その粘土板には,前述の月食のほかに,月の一連の観測結果が13,惑星の観測結果が15記されています。それらは,月や惑星が特定の恒星や星座とどんな位置関係にあったかを述べています。18 また,日の出入りと月の出入りとの時間間隔も,八つ記録されています。18a

研究者たちは,月の位置に関する記述が非常に信頼できるので,VAT 4956に見られるそれら月の一連の13の観測結果を注意深く分析してきました。過去の特定の日における天体の位置を示せるコンピューター・プログラムの助けを得て,データを分析しました。19 その分析によってどんなことが明らかになったでしょうか。月の位置に関するそれら一連の観測結果は,西暦前568/567年の場合すべてが適合するわけではありませんが,それより20年前の西暦前588/587年の位置として割り出されたものとであれば,13のすべてがぴったり一致します。

月の観測結果が西暦前568年よりも西暦前588年のほうに当てはまる箇所の一つが,この両ページにわたる粘土板の写真とその説明に示されています。その粘土板の3行目には,月が「[ニサヌ]9日の夜」に特定の位置にあったことが記されています。ところが,最初にその出来事を西暦前568年(天文学的には,–567年)の事とした学者たちは,西暦前568年に月がその位置にあったのは「ニサヌの9日ではなく8日」だったとみなしました。それで,その粘土板の日付を西暦前568年とするために,書記官が誤って「8」ではなく「9」と書いた,としたのです。20 しかし,3行目に記されている月の位置は,西暦前588年ニサヌ9日のものと完全に一致しています。21

明らかに,VAT 4956の天文学的データの多くは,ネブカドネザル2世の第37年が西暦前588年であることを示しています。ですからこの事実は,エルサレムの滅ぼされた年が,まさに聖書の示しているとおり西暦前607年であったことを裏づけるものです。

聖書を信頼するのはなぜか

今のところ,一般の歴史家の大多数は,エルサレムが西暦前587年に滅ぼされたと考えています。しかし,聖書筆者のエレミヤとダニエルは,ユダヤ人が50年間ではなく70年間流刑にされたことをはっきり示しています。(エレミヤ 25:1,2,11; 29:10。ダニエル 9:2)その陳述は,エルサレムが西暦前607年に滅ぼされたことを強く示唆しています。上述の証拠が示しているとおり,その結論を裏づける一般資料もあります。

一般の専門家たちは,これまで再三,聖書の正確さに疑問を投げかけてきました。しかし,より多くの証拠が発見されるたびに,聖書の記録の正しさが証明されてきました。 e 聖書を信頼している人は,十分の理由があってそれを信頼しています。その人の考えは聖書の歴史的,科学的,預言的な正確さを示す証拠に基づいており,そのような証拠があるからこそ,『聖書は神の霊感による言葉である』という聖書の主張を信じているのです。(テモテ第二 3:16)あなたも,その証拠をご自分で調べてみてはいかがですか。きっと同じ結論に至ることでしょう。

[脚注]

b 注記: この記事に出てくる一般の専門家たちはいずれも,エルサレムが滅ぼされたのは西暦前607年である,とは主張していません。

c バビロニアの王の「在位年」は,ニサンからニサンまでを1年と数えました。王が「在位年」の途中で死んだ場合,後継者が即位して前王の「在位年」を全うしました。その年は新王の「即位年」であり,「在位年」は翌年のニサンの月から数え始めました。

d 商取引関係の粘土板は,幾つかの例外を除けば,これまで新バビロニアの王たちの時代とされてきたどの年のものも現存しています。それらの王たちの支配した年月を合計して,新バビロニアの最後の王ナボニドスから逆算すると,エルサレムの滅びは西暦前587年に起きたことになります。しかし,この方法による年代計算は,各王が退位したのと同じ年に次の王が後を継いだ場合にのみ有効です。

e 具体例については,エホバの証人の発行した「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」という本の第4章と第5章をご覧ください。

[23ページの囲み記事/図表]

 (正式に組んだものについては出版物を参照)

バビロニア年代記 ― 空白のある歴史

バビロニア年代記から分かるのは,約88年続いたとされる新バビロニア期のうち,35年間のことだけである。

記録の残っていない年

記録の残っている年

BM 21901

BM 21946

BM 35382

新バビロニア期

ペルシャ時代

ナボポラッサル

ネブカドネザル2世

アメル・マルドゥク

ナボニドス

ネリグリッサル

ラバシ・マルドゥク

BM 25127

BM 22047

BM 25124

[クレジット]

BM 21901 and BM 35382: Photograph taken by courtesy of the British Museum; BM 21946: Copyright British Museum; BM 22047, 25124, 25127: © The Trustees of the British Museum

[24ページの囲み記事/図版]

天文日誌 BM 32238

この粘土板には,過去に起きた幾つもの月食の記録が収められているが,その粘土板が作られたのは,記録されている最後の月食が見られた後であった。最初の月食は,最後の月食より400年ほど前に起きたとされている。それを書き記した人はその間の出来事すべてを観察したわけではないので,最初のころの月食が起きた時を特定するために,数学的な計算をした可能性もある。そのようにして書かれた記録は,裏づけとなる付加的な証拠がない限り,年代を知るための信頼できる情報源とは言えない。

[クレジット]

© The Trustees of the British Museum

[26,27ページの囲み記事/図版]

VAT 4956は実際に何と述べているか

争点となるのはなぜか。この粘土板の3行目には,第1の月(ニサヌ/ニサン)の「9日の夜」に「月が乙女座ベータ星の前方1キュビトの所にあった」と記されている。しかし,1915年にノイゲバウアとワイドナーは,西暦前568年(エルサレムの滅びを西暦前587年とする年)に関して,「月がこの星の1キュビト前方にあったのはニサン8日であって,ニサン9日ではない」と書いている。(斜体は本誌。)一方,粘土板の記述と月の位置がぴったり一致するのは,西暦前588年のニサン9日であり,この場合,エルサレムが滅ぼされたのは西暦前607年となる。

9日なのか,それとも8日なのか

(1)左ページの拡大写真に示されているとおり,9を表わすアッカド語の符号がはっきり見える。

(2)ノイゲバウアとワイドナーは,この楔形文字のテキストを翻字する際に,「9」を「8」に変えた。

(3)元のテキストでは「9」であったことを脚注の中だけで示している。

(4)二人はドイツ語訳の中でも「8」とした。

(5)1988年,サックスとフンガーは,「9」と記されている実際どおりのテキストを出版した。

(6)それでも,英訳の中ではその改変をそのままにし,「9日」は「8日の誤り」であるとしている。

[クレジット]

bpk / Vorderasiatisches Museum, SMB / Olaf M. Teßmer

[28ページの囲み記事]

「古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部」の資料

1. 楔形文字とは,先端が楔形になっている尖筆を使って,柔らかい粘土板の表面に様々なしるしを付けて記した文字のこと。

2. 「アッシリア・バビロニア年代記」(英語),A・K・グレイソン著,1975年発行,2000年再版,8ページ。

3. 新バビロニア期は,カルデア王朝の王たちがバビロニア帝国を支配した,西暦前7世紀に始まった。初代の支配者は,ネブカドネザル2世の父ナボポラッサルだった。新バビロニア期は,西暦前539年,最後の王ナボニドスがペルシャの王キュロスによって倒された時に終わった。

4. 「新バビロニアの商業文書および行政文書」(英語),エレン・ウィトリー・ムーア著,1935年発行,33ページ。

5. 「アルキメデス,第4巻,科学・技術の歴史と哲学の新研究」(英語),「初期の天文学者たちによる月食の時に関する観測と予測」,ジョン・M・スティール著,2000年発行,36ページ。

6. 「アメル・マルドゥク 西暦前562年-前560年 ― 楔形文字文書,旧約聖書,ギリシャ語,ラテン語,およびラビの文献に基づく研究。図版付き」(英語),ロナルド・H・サック著,1972年発行,3ページ。

7. 粘土板BM 80920およびBM 58872は,エビル・メロダクの即位年の第4および第5の月に作成されたもの。これらは,サックにより,「アメル・マルドゥク 西暦前562年-前560年 ― 楔形文字文書,旧約聖書,ギリシャ語,ラテン語,およびラビの文献に基づく研究。図版付き」,3,90,106ページに載せられた。

8. 大英博物館収蔵の粘土板(BM 55806)は,第43年の第10の月に作成されたもの。

9. 粘土板BM 75106とBM 61325は,支配していた王エビル・メロダクの最後(第2)の年と考えられている年の第7および第10の月のもの。しかし,粘土板BM 75489は,その後継者ネリグリッサルの即位年第2の月のもの。―「大英博物館バビロニア書字板目録」(英語),第VIII巻,(シッパルの書字板3)アール・ライヒティー,J・J・フィンケルシュタイン,C・B・F・ウォーカー共著,1988年発行,25,35ページ。

「大英博物館バビロニア書字板目録」,第VII巻,(シッパルの書字板2)アール・ライヒティー,A・K・グレイソン共著,1987年発行,36ページ。

「ネリグリッサル ― バビロンの王」(英語),ロナルド・H・サック著,1994年発行,232ページ。この粘土板に記されている月はアジャル(第2の月)。

10. 例えばネリグリッサルに関しては,王家の碑文に,この者が「バビロンの王」「ベル・シュム・イシュクンの子」である,と述べられている。(斜体は本誌。)別の碑文では,ベル・シュム・イシュクンが「賢い君」と呼ばれている。「君」と訳されている原語ルブは,「王,支配者」をも意味する称号である。ネリグリッサルの治世とその前王アメル・マルドゥクの治世との間に明らかな矛盾があるのであれば,この「バビロンの王」ベル・シュム・イシュクンが両者の間の一時期支配したのかもしれない。R・P・ドーアティー教授は,「ネリグリッサルの尊属がいた形跡を無視することはできない」と認めている。―「ナボニドスとベルシャザル ― 新バビロニア帝国の最期に関する研究」(英語),レイモンド・P・ドーアティー著,1929年発行,61ページ。

11. 「バビロニア出土の天文日誌と関連文書」(英語),第V巻,ヘルマン・フンガー編,2001年発行,2-3ページ。

12. 「楔形文字研究ジャーナル」(英語),第2巻,No.4,1948年,「セレウコス時代のバビロニア天文学関係粘土板の分類」,A・サックス著,282-283ページ。

13. 「バビロニア出土の天文日誌と関連文書」,第V巻,391ページ。

14. 「メソポタミアの惑星天文学-占星術」(英語),デービッド・ブラウン著,2000年発行,164,201-202ページ。

15. 「ビブリオテカ・オリエンタリス」(オランダ語),第50巻,第1号および第2号,1月-3月,1993年,「アケメネス朝およびセレウコス朝の歴史に関する情報源としての天文日誌」,R・J・ファン・デル・スペク著,94,102ページ。

16. 「バビロニア出土の天文日誌と関連文書」,第I巻,アブラハム・J・サックス著,ヘルマン・フンガー編著,1988年発行,47ページ。

17. 「バビロニア人の月食観測 紀元前750年から前1年まで」(英語),ピーター・J・フーバー,サルボ・デ・メイス共著,2004年発行,186ページ。VAT 4956によれば,この月食はバビロニアの第3の月の15日に起きた。これは,シマヌの月が15日前に始まっていたことを示唆している。もしその月食がユリウス暦の西暦前588年7月15日に当たるとしたら,シマヌ1日は西暦前588年の6月30日/7月1日となる。したがって,バビロニアの第1の月(ニサヌ)の始まりは2か月前の5月2日/3日となり,その日から新年が始まったことになる。普通,月食の年は4月3日/4日に始まったはずであるが,VAT 4956にはその6行目に,前年の第12(最後)の月の後に,余分の月(うるう月)の加えられたことが述べられている。(粘土板には,「XII2[第13]の月の第8日」と記されている。)ゆえに,実際には5月2日/3日になるまで新年は始まらなかったことになる。したがって,西暦前588年のこの月食の日付は,粘土板のデータと符合する。

18. 「ライプチヒで行なわれた,王立ザクセン科学協会の討議に関する報告」(ドイツ語),第67巻,1915年5月1日,「ネブカドネザル2世の第37年(–567/566年)に関する一天体観測者の文書」,パウル・V・ノイゲバウア,エルンスト・F・ワイドナー共著,67-76ページより。それによると,月と特定の星もしくは星座との位置関係の観測結果が13載せられている。また,惑星の観測結果も15挙げられている。(72-76ページ)を表わす楔形文字のしるしは明瞭で間違えようがないが,惑星の名称やその位置を表わすしるしの中には不明瞭なものもある。(「メソポタミアの惑星天文学-占星術」,デービッド・ブラウン著,2000年発行,53-57ページ)ゆえに,その惑星観測の記述は,推測が必要で,幾つもの異なった解釈ができる。月がかつてどの位置にあってどのように見えたかは容易に分かるので,VAT 4956で言及され月と結びつけられているそれら他の天体の位置は特定でき,いつその位置にあったかも確定できる。

18a. これらの間隔(“月に関連した三つの時間”)は,その月の第1日の日の入りから月の入りまでの時間と,その月の後半の他の二つの時間である。学者たちは,それらの時間測定の記述を暦の年月日と結びつけてきた。(「年代を特定できる最初期の北極光観測」[英語],F・R・スティーブンソン,デービッド・M・ウィリス共著。「一つの空の下で ― 古代近東における天文学と数学」[英語],ジョン・M・スティール,アネット・イムハウゼン共編,2002年発行,420-428ページより)古代の観測者たちはある種の時計を用いてこの時間の長さを測ったが,そのような測定結果の記述は信頼できるものではない。(「アルキメデス,第4巻,科学・技術の歴史と哲学の新研究」,「初期の天文学者たちによる月食の時に関する観測と予測」,ジョン・M・スティール著,2000年発行,65-66ページ)一方,月の位置を他の天体との関係で算定した記述は,より確かなものである。

19. この分析は,TheSky6™という天文学ソフトウェアを使って行なわれた。それに加えて,包括的なフリーソフトCartes du Ciel/Sky Charts(CDC)と米国海軍観測所提供の暦変換ツールも使われた。惑星の位置の多くについての楔形文字の記号は,推測や幾通りかの解釈が可能なので,それらの位置に関する記述は,この天文日誌に記されたを特定するためのこの調査には用いられなかった。

20. 「ライプチヒで行なわれた,王立ザクセン科学協会の討議に関する報告」,第67巻,1915年5月1日,「ネブカドネザル2世の第37年(–567/566年)に関する一天文観測者の文書」,パウル・V・ノイゲバウア,エルンスト・F・ワイドナー共著,41ページ。

21. VAT 4956の3行目には,「月は乙女座ベータ星の前方1キュビト(すなわち2度)の所にあった」と記されている。前述の分析により,ニサヌ9日のその月は乙女座ベータ星の前方2度4分,下方0度にあった,という結論が出た。それは完全な一致とされた。

[25ページの図表]

 (正式に組んだものについては出版物を参照)

VAT 4956がエルサレムの滅ぼされた年として指し示しているのは ― 西暦前587年? それとも607年?

■ その粘土板には,王ネブカドネザル2世の治世第37年に起きた天文学上の事象が記されている。

■ ネブカドネザル2世は在位第18年にエルサレムを滅ぼした。―エレミヤ 32:1

もしネブカドネザル2世の第37年が西暦前568年だったとしたら,エルサレムの滅びは西暦前587年だったことになる。

西暦前610年

600年

590年

580年

570年

560年

その第37年が西暦前588年であったなら,エルサレムの滅びは,聖書の年代記述の示している西暦前607年となる。

■ VAT 4956は西暦前607年を指し示している,と考えるほうが理にかなっている。

[22ページの図版のクレジット]

Photograph taken by courtesy of the British Museum