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奇跡は本当にあり得ますか ― よくある三つの反論

奇跡は本当にあり得ますか ― よくある三つの反論

奇跡は本当にあり得ますか ― よくある三つの反論

反論 1: 奇跡は,自然の法則に反するので,あり得ない。自然の法則についてわたしたちが理解していることは,科学者たちが身近な自然界の現象を観察して知った事柄に基づいています。それらの法則は文法に例えることができます。文法という“規則”には例外があるものです。実のところ,わたしたちは自然の“規則”をごくわずかしか理解していません。熱心な科学者が自然の法則の一つを生涯にわたって研究してきたとしても,“例外”が一つ見つかっただけで,その法則に関する自分の理解を見直さなければならなくなるのです。かつて西洋では,「ハクチョウはみな白い」と言われていましたが,黒いのが1羽見つかっただけで,その常識は覆されました。

人は事実のすべてを知らないまま判断しがちだ,ということを示すユーモラスな逸話があります。ジョン・ロック(1632年-1704年)の語った,オランダの大使とシャムの王に関する次のような話です。大使は王に,『オランダでは象が水面を歩ける時もある』と言いました。王は『そんなことはあり得ない。大使はうそをついているのだ』と思いました。しかし大使は,王の見たことのない事柄を説明していたに過ぎませんでした。王は,水が凍ればその氷は象が乗っても割れない,ということを理解できませんでした。事実のすべてを知らなかった王にとっては,あり得ないことのように思えたのです。

現代科学によって可能となった事柄について考えてみてください。どれもほんの数十年前にはあり得ないと考えられていたことです。

● 飛行機1機に800人もの乗客を乗せて,ニューヨークからシンガポールまでノンストップで,それも時速900㌔ものスピードで空輸できる。

● 別々の大陸にいても,テレビ会議をすれば,互いの顔を見ながら会話できる。

● マッチ箱より小さな装置に歌を幾千曲も入れておくことができる。

● 外科手術によって心臓その他の臓器を移植できる。

こうした事実から,理にかなったどんな結論を導き出せるでしょうか。そうです,人間でさえほんの数年前まであり得ないと思われていた偉業を成し遂げられるのであれば,この宇宙とその中のすべての物をお造りになった神は,わたしたちがまだ十分に理解していない,あるいは今のところ模倣できない,驚くべき事柄も行なえるはずです。 *創世記 18:14。マタイ 19:26

反論 2: 聖書は奇跡を信仰の根拠にしている。聖書は,奇跡すべてを信じるようにとは述べていません。実はその逆で,奇跡や強力なしるしを信じることに関しては,十分用心するようにと警告しているのです。例えば,「不法の者は,サタンの働きによって現れ,あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い,そして,あらゆる不義を用いて,……欺く」という明確な警告があります。―テサロニケ第二 2:9,10,「新共同訳」,共同訳聖書実行委員会。

イエス・キリストも,多くの人が『自分はキリストに従う』と言いながらも本当に従う者とはならないであろう,と警告していました。「主よ,主よ,わたしたちは御名によって預言し,御名によって悪霊を追い出し,御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言う人たちさえ出ます。(マタイ 7:22,「新共同訳」)しかしイエスは,それらの人を追随者として受け入れることはしない,と語りました。(マタイ 7:23)ですから,イエスが『奇跡はみな神からのものである』と教えなかったことは明らかです。

神はご自分の崇拝者たちに,『奇跡だけを信仰の基盤としなさい』とは告げておられません。信仰は,奇跡も含め諸事実に基づいて確立すべきものです。―ヘブライ 11:1

例えば,聖書中のよく知られている奇跡の一つ,イエス・キリストの復活のことを考えてみましょう。その出来事があった時から幾年も後に,コリントのクリスチャンの幾人かが,イエスの復活を疑うようになりました。使徒パウロはそれらの人をどのように助けたでしょうか。「もっと信仰を持ちなさい」と言っただけでしょうか。いいえ,そうではありません。彼らに,動かし難い事実を思い起こさせるために,『イエスは葬られ,聖書にしたがって三日目によみがえらされ,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に現われ,そののち一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっています』と述べたのです。―コリント第一 15:4-8

当時のクリスチャンにとって,その奇跡を信じるのは重要なことだったでしょうか。パウロは,続けてこう述べています。「もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります」。(コリント第一 15:14)パウロはこのことを軽く扱ってはいません。イエスの復活の奇跡は,事実であったかなかったかのどちらかです。パウロはそれが事実であることを知っていました。なぜなら,当時まだ生きていた幾百人もの目撃者の証言があったからです。実際,それら目撃者たちは,自分の見た事柄を否定するくらいなら,死ぬことも辞しませんでした。―コリント第一 15:17-19

反論 3: 奇跡は単なる自然現象で,教養のない人々がそれを奇跡と勘違いしたにすぎない。一部の学者たちは,聖書中の奇跡を,神の介入なしに起きた単なる自然現象として説明しようとします。自然現象だとすれば聖書の記述は信じやすくなる,と考えてのことでしょう。確かに,ある種の奇跡が,地震,疫病,地滑りといった自然現象に関連づけて説明されたこともありますが,そうした説明には一つの共通点があります。その奇跡がいつ起きたかに関する,聖書中の説明を無視しているのです。

例えば,ある人たちは,『エジプトにもたらされた最初の災厄,すなわちナイル川の水が血に変わった災厄は,実際には赤土が,鞭毛虫と呼ばれる赤い生物と共に,ナイル川を流れ下った結果だ』と論じてきました。しかし聖書には,『川が血になった』と記されており,『赤い泥水になった』とは言われていません。出エジプト記 7章14-21節を注意深く読めば,この奇跡はモーセの指示によりアロンが自分の杖でナイル川を打った時に起きた,ということが分かります。たとえ川に生じた変化が自然現象によるものであったとしても,アロンが川を打った時に起きたこと自体,奇跡でした。

もう一つ,奇跡がいつ起きたかが重要であることの例として,イスラエル国民が約束の地に入ろうとしていた時に起きた事柄について考えてみましょう。その進路は,洪水期のヨルダン川に阻まれていました。聖書には,そのあとどんなことが起きたかがこう記されています。「箱を担う者たちがヨルダンまで来て,箱を担うその祭司たちの足が水のきわにつかると……その時すぐ,上流から下って来る水は止まりはじめた。それはずっと遠く,ツァレタンのそばの都市アダムのところで一つのせきとなって盛り上が(った)」。(ヨシュア 3:15,16)これは,地震または地滑りの結果として起きたのでしょうか。そのことについては何も述べられていません。しかし,その出来事は奇跡的なタイミングで起きました。エホバが起きると言われた,まさにその時に起きたのです。―ヨシュア 3:7,8,13

以上のことからすると,奇跡というものはあるのでしょうか。聖書は,『ある』と述べています。その教えによれば,奇跡は単なる自然現象ではありません。では,常日ごろ起きないというだけの理由で『奇跡なんて,あり得ない』と言うのは,筋の通ったことでしょうか。

[脚注]

^ 9節 神の実在を信じられない方は,「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」および「生命 ― どこから?」という冊子をご覧になるか,この雑誌を届けた人に詳しいことをお尋ねください。

[5ページの図版]

ほんの数十年前までは,人々が時速何百キロものスピードで飛行することなどあり得ない,と考えられていた