神に近づく
神は「ご自分を切に求める者に報いてくださる」
エホバは,ご自分を崇拝する人がご自分を喜ばせようとして行なう事柄を,高く評価しておられるでしょうか。評価してはおられない,と言う人もいることでしょう。それらの人は,神は人間に関心を抱いてはいない,と主張します。しかし,そのような主張は神を甚だしく誤り伝えるものです。神の言葉 聖書は,真実を明らかにしています。エホバがご自分の忠実な崇拝者の努力の価値を認識しておられる,という事実をはっきり示しているのです。ヘブライ 11章6節の使徒パウロの言葉を考えてみてください。
エホバを喜ばせるには,何が必要でしょうか。「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません」とパウロは書いています。不可能ではないが難しい,と言っているのではありません。不可能であり,できない,と言っているのです。神を喜ばせるのに信仰は不可欠だということです。
エホバはどんな信仰を喜ばれるのでしょうか。神に対する信仰には二つの面が含まれていなければなりません。一つは,「神がおられる」のを信じていることです。神の存在を疑っているなら,神を喜ばせることなどできません。とはいえ,真の信仰には,神の存在を信じる以上のことが関係しています。なぜなら,エホバが実在しておられることは悪霊たちでさえ信じているからです。(ヤコブ 2:19)わたしたちは神の実在を信じているだけではありません。その信仰の表われとして,神を喜ばせるような生き方をするのです。―ヤコブ 2:20,26。
もう一つは,神が「報いてくださる」のを信じていることです。真の信仰を持っている人は,神を喜ばせる生き方がむなしいものとなることなどあり得ない,と確信しています。(コリント第一 15:58)わたしたちは,報いてくださるエホバの能力や意志を疑うなら,エホバを喜ばせることはできません。(ヤコブ 1:17。ペテロ第一 5:7)神は気遣ったり感謝したりはしない狭量な方だ,と考える人は,聖書の神を知ってはいないのです。
エホバはどんな人に報いてくださるのでしょうか。「ご自分を切に求める者に」とパウロは述べています。聖書翻訳者用のある参考書によれば,「切に求める」と訳されているギリシャ語は,「見つけるために出かける」ことではなく,神のもとへ「崇拝のために」行くことを意味しています。別の参考書には,ギリシャ語のこの動詞は強さや集中的な努力を示す語形になっている,と説明されています。そうです,エホバは,人が信仰に動かされてご自分を心から愛するがゆえに熱心に崇拝するとき,その人に報いをお与えになるのです。―マタイ 22:37。
報いを与えてくださるエホバの能力や意志を疑うなら,エホバを喜ばせることはできない
エホバは,忠実な崇拝者たちにどんな報いをお与えになるでしょうか。ご自分の寛大さと愛の深さを明らかにする,将来の極めて価値の高い報い ― すなわち,楽園となる地上での永遠の命 ― を約束しておられます。(啓示 21:3,4)エホバを切に求める人たちは,今でさえ豊かな祝福を受けています。神の聖霊と聖書の知恵に導かれて,報いの多い,満足のゆく生き方をしているのです。―詩編 144:15。マタイ 5:3。
確かにエホバは,ご自分の敬虔な崇拝者たちの忠実な奉仕を尊ぶ,感謝の念の厚い神です。あなたも,そのことを知ると,エホバに近づきたいと思われるのではありませんか。では,エホバから豊かに報われるような信仰を培って実証するにはどうすればよいかについて,さらに学んではいかがですか。
11月の聖書通読の範囲