思春期 ― 大人になる備えをさせる時

思春期 ― 大人になる備えをさせる時

思春期 ― 大人になる備えをさせる時

旅行で熱帯の島から北極圏に入ったとしましょう。飛行機を降りると,極寒の気候の寒さが身にしみます。順応できるでしょうか。大丈夫です。でも幾らかの調整は必要でしょう。

子どもが思春期に入る時に親が直面する状況も,それに似ています。一夜にして気候が変わってしまったように思えるかもしれません。いつもあなたにまとわりついていた男の子は,今では仲間と過ごすことを好みます。その日にあったことを話したくてうずうずしていた女の子は,そっけない返事しかしません。

母: 「学校どうだった?」

娘: 「ふつう」。

「……」。

母: 「何かあったの?」

娘: 「別に」。

「……」。

どうなってしまったのでしょうか。「本音を読み解く」(英語)という本は次のように説明しています。「[少し前までは]子どもの生活の中でマネージャー的存在として楽屋まで入れたが,今では客席のチケットが取れればまし。しかも,あまりいい席は取れないだろう」。

もう部外者になってしまったのでしょうか。そうではありません。思春期を通じて,子どもの近くにいることはできます。とはいえ,胸が躍るようなこともあれば波乱もあるこの時期に,子どもにどんな変化が起きているかを理解する必要があります。

子どもから大人への移行期

研究者たちはかつて,人間の脳は5歳ごろまでにはほぼ形成されると考えていました。今では,脳の大きさはその年齢以降はあまり変わらないものの,働きとなると話は別であると考えています。若い人は思春期に入ると,ホルモンの大きな変化を経験し,考え方にも影響が及びます。例えば,子どもは幼いころには物事を額面どおり,ただ良いか悪いかという視点で見がちですが,思春期になると抽象的な考え方をするようになり,物事の根底にある幾つかの要素を比較考量できるようになります。(コリント第一 13:11)さらに,信念を持つようになり,それを言い表わすのをためらいません。

イタリアのパオロという男性は,思春期の息子の変化についてこう述べています。「息子はまだ十代で,あどけなさが残っていますが,一人前の男性を相手にしているかのように感じます。もう小さな子どもではないのです。身体面の変化も見られますが,何より驚かされるのは考え方の変化です。思っていることをはっきり述べ,強く主張できるのです」。

あなたのお子さんもそうですか。小さい時は言いつけを素直に守り,なぜという問いには「お母さんがそう言ったでしょう」と言うだけでよかったかもしれません。しかし,思春期の子どもは納得のいく理由を求め,家族が指針とする価値規準を疑問視することさえあるかもしれません。その態度は親の目に反抗と映ることがあります。

とはいえ,お子さんが親の価値規準を覆そうとしていると早合点してはなりません。親の持つ価値規準を自分のものとし,今後の人生の指針にしようと模索しているだけなのかもしれません。こんな例で考えてみましょう。引っ越しで家具を持ってゆく場合,新しい間取りで家具を置ける場所を見つけるのは簡単ですか。そうではないでしょう。だからといって,大切にしている家具をすぐに捨ててしまうことはしません。

思春期の子どもも同じような状況にあります。『父と母を離れる』時に向けて準備を進めているのです。(創世記 2:24)その日はまだ先で,お子さんはまだ大人ではありません。それでもある意味で,荷造りを始めています。親に教えられてきた価値規準を,十代の時期を通じて確かめ,大人になった時にどれを持っていこうかと考えているのです。 a

子どもがそのようなことを考えているかと思うと,どきっとするかもしれません。とはいえ,はっきりしている点として,子どもが大人になっても持ち続けるのは自分が大切だと思う規準だけです。ですから思春期の子どもにとって,親元にいる今は,指針となる原則を入念に確かめるとよい時です。―使徒 17:11

このように確かめることは,お子さん自身の益となります。いま親の規準を理由も考えずに受け入れているなら,後の人生で他の人の規準もあまり考えずに受け入れてしまうかもしれないからです。(出エジプト記 23:2)聖書もそのような若者が『心が欠けている』ために簡単にたぶらかされると述べています。(箴言 7:7)『心が欠けている』とは,とりわけ識別力に欠けていることを意味します。若い人は信念がないと,「人間のたばかり……によって,波によるように振り回されたり,あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたり」しかねません。―エフェソス 4:14

どうすればこうした状況を避けられますか。価値の高い,次の三つのものをお子さんに持たせることです。

1 知覚力

「円熟した人々」は,「自分の知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられる」と,使徒パウロは書いています。(ヘブライ 5:14)『でも,何が正しく何が悪いかは何年も前から教えてきた』と思う方もおられるでしょう。確かに,幼い時に与えた訓練はその時点で益となり,成長の次の段階に進むための備えとなったことでしょう。(テモテ第二 3:14)それでもパウロは,知覚力を訓練する必要があると述べています。子どもは小さい時には何が正しく何が悪いかを知っているかもしれませんが,思春期に入ると,『理解力の点で十分に成長した者となる』必要があります。(コリント第一 14:20。箴言 1:4; 2:11)あなたもお子さんが盲目的に従うだけでなく,筋道立てて考える力をつけてほしいと思われるでしょう。(ローマ 12:1,2)どうすればその面で助けになれますか。

一つの方法は,気持ちを自由に述べさせることです。話の腰を折らず,意に反することを言っても過剰に反応しないよう努めましょう。聖書も,「聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅くあるべきです」と述べています。(ヤコブ 1:19。箴言 18:13)さらに,「心に満ちあふれているものの中から口は語る」とイエスは言いました。(マタイ 12:34)話を聴くなら,子どもが実際にどんなことを気にしているかが分かるでしょう。

こちらが話す時は,角のある言い方を避け,できれば質問してください。イエスも時折「あなた方はどう考えますか」という質問をし,弟子たちだけでなく,かたくなに反対する人の意見も求めました。(マタイ 21:23,28)これと同じ方法を思春期のお子さんに使えます。子どもが,親と反対の意見を述べる時でもそうです。例を挙げましょう。

お子さんがこう言うなら: 「神なんていないんじゃないかなあ?」

避けたい答え方: 「いまさらなんてことを言うんだ。神を信じるのは当然だろう!」

むしろこう言えます: 「どうしてそう思うんだい?」

なぜ気持ちを聴きますか。その子の言葉は聞いていますが,考えを知る必要があるからです。(箴言 20:5)神がいるかどうかということよりも,神の定めた規準が引っかかっているのかもしれません。

例えば,道徳に関する神の律法を守るのが難しいと感じる若者は,神はいないことにすればその律法に従わなくて済む,と考えるかもしれません。(詩編 14:1)『神が存在しないのなら,聖書の規準を守る必要はない』と考えるのです。

お子さんがそのように考えているようなら,次の問いについて筋道立てて考えさせる必要があるでしょう。神の規準が自分の益のためにあると本当に信じているか,という問いです。(イザヤ 48:17,18)益となると子どもが信じているなら,そのために努力を払うほうが良いのではないか,と励ましてください。―ガラテア 5:1

お子さんがこう言うなら:お父さんの宗教が僕の宗教だとは限らない」。

避けたい答え方: 「これはうちの宗教だ。うちの子なんだから,親の宗教を受け入れるべきだ」。

むしろこう言えます: 「それははっきりした意見だね。でも,お父さんの信条を受け入れないと言うのなら,違う考えがあるんだろうね。じゃあ,何が正しいと信じているの? どんな規準にしたがってゆくべきだと思うんだい?」

なぜ気持ちを聴きますか。このように一緒に筋道立てて考えるなら,子どもが自分の本当の気持ちを確かめるように助けることができます。子どもは,親と同じ信条を持っていることに気づき,実際は全く別の事柄に引っかかっていることが分かるかもしれません。

例えば,お子さんは自分の信条を他の人にどう説明したらよいのか分からないのかもしれません。(コロサイ 4:6。ペテロ第一 3:15)あるいは,自分と同じ宗教に属さない異性に魅力を感じているのかもしれません。問題の根底にあるものを見極め,子ども自身もそうできるように助けましょう。子どもは知覚力を用いれば用いるほど,大人になるための備えができます。

2 大人からの導き

心理学者の中には,十代は“疾風怒濤”の時期になることを当然予期すべきだと言う人もいますが,そのような傾向が見られない文化圏が今もあります。研究者たちが分かった点として,それらの地域では若者が早くから大人として社会の一員になっています。若くても大人と共に働き,交流し,成人としての責任をゆだねられます。そうした社会では,「若者文化」,「青少年の非行」,さらには「思春期」という言葉さえ存在しません。

それとは対照的に,多くの国の若い人は大規模学級に押し込まれ,学校で意味ある交流を持つ相手となるのは同世代の人たちだけです。家に帰っても,親が共働きしていてだれもいません。親族が近くに住んでいるわけでもありません。子どものいちばん身近にいるのは,同年代の子たちです。 b この状況がどんな危険をはらんでいるか,お気づきですか。ただ悪い仲間と付き合うおそれがあるというだけのことではありません。まじめで素行のよい若者でも,大人の世界から切り断たれると無責任な行動に走りがちであることを研究者たちは知りました。

若者を大人から隔絶しなかった社会の一つとして,古代イスラエルを挙げることができます。 c 例えば聖書によれば,ウジヤはまだ十代でユダの王になりました。ウジヤがそのような重責を担えたのはなぜでしょうか。ゼカリヤという名の大人が良い感化を与えたことが一つの要因だったと思われます。ゼカリヤについて聖書は,「まことの神への恐れを教え諭す者」と述べています。―歴代第二 26:5

十代のお子さんには,あなたと同じ価値規準を持つ,相談相手となってくれる大人がいますか。そのような助けをお子さんが喜ぶ時,ねたんだりしないでください。お子さんが正しい行動を取るよう助けてもらえるからです。聖書にも,『賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなる』という格言があります。―箴言 13:20

3 責任感

国や地域によっては,若年労働者の週ごとの就労時間の限度や,就いてはいけない職種が法律で定められています。このような制限は,子どもを危険な作業環境から守ることを意図したものです。18世紀から19世紀の産業革命以降,こうした弊害から子どもを守る必要性が叫ばれるようになりました。

児童労働に関する法律により,若者は危険や虐待から守られています。その一方で専門家の中には,そうした制限のために若い人は責任を担えなくなってしまったと見る人がいます。「思春期を抜け出せない大人にしないために」(英語)という本にあるとおり,結果として多くのティーンエージャーは,「面倒を見てもらって当然という横柄さ,手に入れるための苦労をせずに,差し出されるものを受ける権利があるという見方」を身につけました。この本の著者たちは,こうした態度について,「世の中がティーンエージャーに何らかの貢献を求めるよりも彼らを楽しませることに重きを置いたことの当然の帰結に思える」とも述べています。

一方,聖書は早くに重い責任を担った若者の例を挙げています。それはテモテです。テモテは使徒パウロに出会った時,まだ十代だったと思われます。テモテはパウロから強い感化を受け,ある時には,「あなたのうちにある神の賜物を,火のように燃え立たせる」ようにと諭されました。(テモテ第二 1:6)テモテはおそらく十代の終わりか二十代の初めに家を出ました。そして使徒パウロと旅行し,各地で会衆の設立を助け,兄弟たちを強めました。パウロはテモテと10年ほど働いた後,フィリピのクリスチャンにこう語ることができました。「あなた方のことを真に気づかう,彼のような気持ちの者は,わたしにとってほかにいないのです」。―フィリピ 2:20

思春期の子どもは多くの場合,責任を担う意欲を持っています。責任を担うことには,人のためになる意味ある仕事をすることが関係しており,それを知ると子どもの意欲はいっそう強まります。子どもが責任を担うことは,将来,責任感のある大人へと成長するための訓練となり,いま本人の持つ良い資質を引き出すことにもなります。

新たな“気候”に順応する

この記事の初めで触れたとおり,思春期のお子さんを持つ方なら,ほんの数年前とは“気候”が変わったことにお気づきでしょう。それでも,これまでのお子さんの成長段階でもしてこられたとおり,順応できることを確信してください。

子どもの十代の時期を,(1)知覚力を養うよう助け,(2)大人からの導きを与え,(3)責任感を持たせるための機会と見てください。このようにすれば,大人になる備えをお子さんにさせることができるでしょう。

[脚注]

a ある本は思春期を的確にも,「別れを告げてゆく期間」と表現しています。詳しくは,エホバの証人の発行した「ものみの塔」2009年5月1日号10-12ページをご覧ください。

b ティーンエージャー向けの娯楽の中には,若者の,同年代で固まろうとする傾向を利用したものがあります。そのような娯楽は,若者には独自のサブカルチャーがあり,大人は理解できず入り込めない,という考え方を促進します。

c 「思春期」や「ティーンエージャー」に相当する語は聖書にはありません。神の民の間では,キリスト紀元の前もその後も,若い人は今日の多くの文化圏で標準とされる年齢より早く大人として扱われたようです。

[20ページの囲み記事/図版]

「わたしにとって最高の父と母です」

親の立場にあるエホバの証人は,聖書の原則にしたがって生活するよう,言葉と手本によって子どもを教えます。(エフェソス 6:4)しかし,そうするよう子どもに無理強いしたりはしません。親であるエホバの証人は,子どもが自分で決定を下せる年齢になったら,生活の指針とする価値規準を子ども自身が選ばなければならない,という点を理解しています。

18歳のアシュリンは,親に教えられた価値規準を自分のものにしました。こう述べています。「わたしにとって,宗教は単に週に一日だけ行なう活動ではなく,生き方そのものです。自分の行動や下す決定すべてに,例えばだれを友達にし,どの科目を選択し,どんな本を読むかということにも関係してきます」。

アシュリンは,クリスチャンの親から与えられたしつけにとても感謝し,こう語ります。「わたしにとって最高の父と母です。エホバの証人になり,その歩みを続けたいという願いをはぐくんでもらえ,うれしく思います。これからもずっと,父と母にアドバイスを求めてゆくつもりです」。

[17ページの図版]

お子さんが気持ちを話せるようにしましょう

[18ページの図版]

相談相手となってくれる大人は子どもに良い感化を与える

[19ページの図版]

意味ある仕事は責任を担える大人になるための助けとなる