邪悪なことは憎悪しましょう

邪悪なことは憎悪しましょう

邪悪​な​こと​は​憎悪​し​ましょ​う

エホバ​は​聖​なる​神​です。古代​に​おい​て​エホバ​は「イスラエル​の​聖​なる​方」でし​た。また,その​よう​な​方​で​ある​ゆえ​に,イスラエル​が​清く,汚れ​の​ない​状態​に​ある​こと​を​お求め​に​なり​まし​た。(詩編 89:18)エホバ​は​ご自分​の​選民​に,「あなた方​も​聖​なる​者​と​なら​なけれ​ば​なら​ない。わたし​は​聖​なる​者​だ​から​で​ある」と​お告げ​に​なり​まし​た。(レビ​記 11:45)だれ​に​せよ「エホバ​の​山​に​上っ​て​ゆき」たい​と​思う​人​は,「手​が​潔白​で,心​の​清い」者​で​なけれ​ば​なり​ませ​ん​でし​た。(詩編 24:3,4)それ​は,単に​罪深い​行ない​を​し​ない​と​いう​だけ​の​こと​で​は​あり​ませ​ん。「悪​を​憎む​こと」を​意味​し​まし​た。―箴言 8:13

エホバ​は​愛情​深く​も,イスラエル​国民​が​何​が​悪行​か​を​見分け​て​それ​を​避ける​こと​が​できる​よう,詳細​に​わたる​律法​を​お定め​に​なり​まし​た。(ローマ 7:7,12)それら​の​律法​に​は,道徳​に​関する​厳格​な​指針​も​含ま​れ​て​い​まし​た。姦淫,同性​愛​行為,近親​相姦​に​類する​関係,獣姦​など​は​みな,神聖​さ​を​冒す​霊的​汚染​源​で​ある​こと​が​明示​さ​れ​まし​た。(レビ​記 18:23; 20:10‐17)その​よう​な​ふしだら​な​こと​を​し​た​者​は,イスラエル​国民​の​中​から​断た​れ​まし​た。

油そそが​れ​た​クリスチャン​の​会衆​が「神​の​イスラエル」と​なっ​た​時,それら​クリスチャン​の​ため​に​も​同様​の​道徳​規準​が​定め​られ​まし​た。(ガラテア 6:16)クリスチャン​も「邪悪​な​こと​は​憎悪」す​べき​でし​た。(ローマ 12:9)「あなた方​は​聖​なる​者​で​なけれ​ば​なら​ない。わたし​は​聖​なる​者​だ​から​で​ある」と​いう,イスラエル​に​対する​エホバ​の​言葉​は,クリスチャン​に​も​当てはまり​まし​た。(ペテロ​第​一 1:15,16)クリスチャン​会衆​は,淫行,姦淫,同性​愛​行為,獣姦,近親​相姦​と​いっ​た,神聖​さ​に​反する​行ない​に​よっ​て​腐敗​さ​せ​られ​て​は​なり​ませ​ん​でし​た。その​よう​な​行為​に​携わる​こと​を​やめ​よう​と​し​ない​者​は,神​の​王国​から​締め出さ​れる​こと​に​なっ​て​い​まし​た。(ローマ 1:26,27; 2:22。コリント​第​一 6:9,10。ヘブライ 13:4)この「終わり​の​日」に​は,「ほか​の​羊」に​も​同じ​規準​が​当てはまり​ます。(テモテ​第​二 3:1。ヨハネ 10:16)その​結果,油そそが​れ​た​クリスチャン​と​ほか​の​羊​は,一つ​の​清く​て​健全​な​民​を​構成​し,エホバ​の​証人​と​し​て​自分​たち​の​神​の​名​を​担う​こと​が​でき​ます。―イザヤ 43:10

会衆​を​清く​保つ

それ​と​は​対照​的​に,世​は​不​道徳​行為​を​何​で​も​大目​に​見​ます。真​の​クリスチャン​は​世​と​は​異なっ​て​い​ます​が,今​エホバ​に​仕え​て​いる​多く​の​人​も​かつて​は​世​に​い​た,と​いう​こと​を​忘れる​べき​で​は​あり​ませ​ん。聖​なる​神​を​知る​まで​は,なぜ​堕落​し​た​肉​の​欲望​や​空想​に​身​を​任せ​て​は​いけ​ない​の​か​が​分から​ず,「放とう​の……下劣​な​よどみ」の​中​で​転げ回っ​て​い​た​人​も​少なく​あり​ませ​ん。(ペテロ​第​一 4:4)使徒​パウロ​は,腐敗​し​た​諸​国民​が​習わし​に​し​て​い​た​嫌悪​す​べき​行ない​を​描写​し​た​後,「あなた方​の​中​に​は​その​よう​な​人​たち​も​い​まし​た」と​述べ​まし​た。と​は​いえ,そう​言っ​た​あと​で,「しかし,あなた方​は​洗わ​れ​て​清く​なっ​た​の​です。神聖​な​者​と​され​た​の​です。わたしたち​の​主​イエス​・​キリスト​の​名​に​おい​て,また​わたしたち​の​神​の​霊​を​もっ​て,義​と​宣せ​られ​た​の​です」と​も​述べ​まし​た。―コリント​第​一 6:11

なんと​励み​に​なる​言葉​でしょ​う。かつて​どんな​人生​を​送っ​て​い​た​に​せよ,心​が​キリスト​に​つい​て​の​栄光​ある​良い​たより​の​影響​を​受ける​と,人​は​変化​し​ます。その​人​は​信仰​を​働かせ,エホバ​神​に​献身​し​ます。その​時​以降,道徳​的​に​浄い​生活​を​送り,神​の​目​から​見​て,洗わ​れ​て​清く​なり​ます。(ヘブライ 9:14)以前​に​犯し​た​罪​は​赦さ​れ,「前​の​もの​に​向かっ​て​身​を​伸ば(す)」こと​が​できる​の​です。 *フィリピ 3:13,14。ローマ 4:7,8

エホバ​は,殺人​と​姦淫​に​関し​て,悔い改め​た​ダビデ​を​お許し​に​なり​まし​た。また,不​道徳​な​偶像​礼拝​と​多く​の​流血​行為​に​関し​て,悔い改め​た​マナセ​を​許さ​れ​まし​た。(サムエル​第​二 12:9,13。歴代​第​二 33:2‐6,10‐13)わたしたち​は,自分​の​場合​も,もし​悔い改め​て​誠実​に​謙遜​な​態度​で​エホバ​に​近づく​なら,エホバ​は​いつ​で​も​快く​許し​て​くださる,と​いう​こと​を​本当​に​感謝​でき​ます。と​は​いえ,エホバ​が​ダビデ​と​マナセ​を​お許し​に​なっ​て​も,この​二​人​は,そして​イスラエル​も,自分​の​罪深い​行ない​の​結果​を​背負っ​て​生き​て​ゆか​なけれ​ば​なり​ませ​ん​でし​た。(サムエル​第​二 12:11,12。エレミヤ 15:3‐5)同様​に,罪​を​悔い改める​人​は​エホバ​に​許し​て​いただける​と​は​いえ,やはり​行なっ​た​こと​の​必然​的​な​結果​は​残る​か​も​しれ​ませ​ん。

必然​的​な​結果

例えば,不​道徳​な​放とう​の​生活​を​送っ​て​エイズ​に​感染​し​た​人​が,真理​を​受け入れ​て​生活​を​改め,ついに​は​献身​し​て​バプテスマ​を​受ける​か​も​しれ​ませ​ん。その​人​は​今や,神​と​の​関係​と​将来​の​すばらしい​希望​を​持つ​霊的​に​清い​クリスチャン​です。それでも,エイズ​患者​で​ある​こと​に​変わり​は​あり​ませ​ん。やがて​は​その​病気​の​ため​に​死亡​する​か​も​しれ​ませ​ん。悲しい​こと​です​が,以前​の​行ない​の​免れ​得​ない​結果​です。ある​クリスチャン​の​場合,以前​に​携わっ​た​甚だ​し​い​不​道徳​行為​の​影響​が​他​の​形​で​尾​を​引い​て​いる​か​も​しれ​ませ​ん。バプテスマ​を​受け​た​あと​何​年​も,もしか​し​たら​この​事物​の​体制​下​で​生活​する​限り​ずっ​と,以前​の​不​道徳​な​生活​様式​に​戻ろ​う​と​する​自分​の​肉体​の​衝動​と​闘わ​なけれ​ば​なら​ない​か​も​しれ​ませ​ん。多く​の​人​は​エホバ​の​霊​の​助け​を​得​て,負け​ず​に​頑張っ​て​い​ます。と​は​いえ,絶え​ず​闘い​つづけ​なけれ​ば​なり​ませ​ん。―ガラテア 5:16,17

その​よう​な​人​は​衝動​を​制し​て​いる​限り,罪​を​犯す​わけ​で​は​あり​ませ​ん。しかし,男子​の​場合,強い​肉的​衝動​に​対し​て​まだ​苦闘​を​強い​られ​て​いる​間​は,賢明​に​も,会衆​内​の​責任​ある​立場​を「とらえ」ない​こと​に​する​か​も​しれ​ませ​ん。(テモテ​第​一 3:1)なぜ​でしょ​う​か。なぜなら,その​人​は​会衆​が​長老​に​対し​て​置く​信頼​の​ほど​を​知っ​て​いる​から​です。(イザヤ 32:1,2。ヘブライ 13:17)その​人​は,長老​が​いろいろ​私的​な​問題​で​相談​を​受け,また​微妙​な​状況​を​扱わ​なけれ​ば​なら​ない​こと​を​よく​知っ​て​い​ます。汚れ​た​肉的​欲望​と​絶え​ず​闘っ​て​いる​人​に​とっ​て,その​よう​な​責任​ある​立場​を​とらえ​よう​と​する​の​は,愛​の​ある​こと​で​も​賢明​な​こと​で​も​道理​に​かなっ​た​こと​で​も​ない​でしょ​う。―箴言 14:16。ヨハネ 15:12,13。ローマ 12:1

バプテスマ​を​受ける​以前,子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​て​い​た​人​の​場合​は,その​結果​と​し​て​別​の​問題​が​尾​を​引い​て​いる​こと​が​あり​ます。その​人​は​真理​を​学ん​で,悔い改め​て​身​を​転じ,その​ひどい​罪​を​会衆​内​に​持ち込み​ませ​ん。その​後​は​よい​進歩​を​遂げ,間違っ​た​衝動​を​すっかり​克服​し,さらに​は​会衆​内​の​責任​ある​立場​を「とらえ」たい​と​思う​か​も​しれ​ませ​ん。しかし,子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​て​い​た​人​と​いう,地域​社会​に​おける​汚名​が​まだ​すすが​れ​て​い​ない​場合​は​どう​でしょ​う。その​人​は「とがめ​られる​ところ​の​ない​人​で……外部​の​人々​から​も​りっぱ​な​証言​を​得​て​いる……とがめ​の​ない​者」で​ある,と​言える​でしょ​う​か。(テモテ​第​一 3:1‐7,10。テトス 1:7)いいえ,そう​は​言え​ませ​ん。それゆえ,会衆​内​で​の​特権​に​あずかる​資格​は​ない​でしょ​う。

献身​し​た​クリスチャン​が​罪​を​犯す​とき

エホバ​は,わたしたち​が​弱い​こと​や,バプテスマ​を​受け​た​後​で​さえ​罪​を​犯し​て​しまう​場合​が​ある​こと​を​理解​し​て​おら​れ​ます。使徒​ヨハネ​は​当時​の​クリスチャン​に​あて​て​こう​書き​まし​た。「わたし​が​これら​の​こと​を​書い​て​いる​の​は,あなた方​が​罪​を​犯す​こと​の​ない​ため​です。それでも,もし​だれ​か​が​罪​を​犯す​こと​が​あっ​て​も,わたしたち​に​は​父​の​もと​に​助け手,すなわち​義​なる​方​イエス​・​キリスト​が​おら​れ​ます。そして​彼​は​わたしたち​の​罪​の​ため​の​なだめ​の​犠牲​です。ただし,わたしたち​の​罪​の​ため​だけ​で​は​なく,全​世界​の​罪​の​ため​で​も​あり​ます」。(ヨハネ​第​一 2:1,2)そう​です,エホバ​は,バプテスマ​を​受け​た​クリスチャン​で​あり​ながら​罪​を​犯し​て​しまっ​た​人​を ― 当人​が​本当​に​悔い改め​て,その​間違っ​た​歩み​を​やめ​て​いる​なら ― イエス​の​犠牲​に​基づい​て​許し​て​ください​ます。

これ​に​関する​一つ​の​例​が,1​世紀​の​コリント​会衆​に​見​られ​まし​た。使徒​パウロ​は,その​設立​さ​れ​て​間​も​ない​会衆​で​近親​間​の​淫行​が​犯さ​れ​て​いる​こと​を​聞き,当​の​男性​を​排斥​する​よう​に​と​いう​指示​を​与え​まし​た。後​に,罪​を​犯し​た​その​人​は​悔い改め,パウロ​は​会衆​に​その​人​を​復帰​さ​せる​よう​勧め​まし​た。(コリント​第​一 5:1,13。コリント​第​二 2:5‐9)こう​し​て,その​人​は​エホバ​の​愛​ある​親切​の​持つ​いやし​の​力​と​イエス​の​贖い​の​犠牲​の​持つ​大きな​価値​に​より,自分​の​罪​から​清め​られ​まし​た。今日​で​も​同様​の​こと​が​生じる​か​も​しれ​ませ​ん。しかし,その​場合​に​も​やはり,たとえ​バプテスマ​を​受け​た​人​が​重大​な​罪​を​犯し​た​後​に​悔い改め​て,エホバ​の​目​に​は​許さ​れ​た​と​し​て​も,犯し​た​罪​の​結果​が​依然​と​し​て​残っ​て​いる​こと​が​あり​ます。―箴言 10:16,17。ガラテア 6:7

例えば,献身​し​た​少女​は​淫行​を​犯し​た​場合,その​こと​を​心​から​悔い,会衆​に​助け​て​もらっ​て​ついに​は​霊的​健康​を​取り戻す​か​も​しれ​ませ​ん。しかし,その​不​道徳​行為​の​結果,妊娠​し​て​いる​と​し​たら​どう​でしょ​う​か。その​場合,自分​の​し​た​こと​の​ため​に​生活​が​一変​し​て​しまう​こと​は​避け​られ​ませ​ん。姦淫​を​犯す​男性​も,悔い改め​て​排斥​は​され​ない​か​も​しれ​ませ​ん。しかし,その​人​の​潔白​な​配偶​者​は,離婚​する​聖書​的​な​根拠​が​ある​の​で,離婚​を​選ぶ​か​も​しれ​ませ​ん。(マタイ 19:9)妻​が​そう​する​なら,この​男性​は,エホバ​に​許し​て​いただい​た​と​は​いえ,その​後​は​ずっ​と​自分​の​罪​の​この​重大​な​結果​を​背負っ​て​生き​て​ゆく​こと​に​なり​ます。―ヨハネ​第​一 1:9

別​の​女性​と​結婚​する​ため​に​薄情​に​も​妻​と​離婚​する​人​に​つい​て​は​どう​でしょ​う​か。その​人​は,いつか​は​悔い改め​て​会衆​に​復帰​する​か​も​しれ​ませ​ん。そして​幾​年​か​たつ​うち​に,進歩​を​遂げ,「円熟​に​向かっ​て​進(む)」か​も​しれ​ませ​ん。(ヘブライ 6:2)しかし,その​人​に​は,最初​の​妻​が​配偶​者​を​持た​ず​に​生き​て​いる​限り,会衆​内​の​責任​ある​立場​で​仕える​資格​は​ない​でしょ​う。この​人​は,最初​の​妻​と​離婚​する​聖書​的​な​権利​を​持っ​て​い​なかっ​た​の​ですから,「一​人​の​妻​の​夫」で​は​ない​の​です。―テモテ​第​一 3:2,12

これら​の​点​は,クリスチャン​が​邪悪​な​こと​に​対する​憎悪​の​念​を​培う​べき​強力​な​理由​と​なる​の​で​は​ない​でしょ​う​か。

子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​た​人​に​つい​て​は​どうか

バプテスマ​を​受け​た​大人​の​クリスチャン​が​子供​に​わいせつ​な​こと​を​する​と​し​たら​どう​でしょ​う​か。そういう​罪​を​犯す​人​は,エホバ​から​決して​許し​て​もらえ​ない​ほど​邪悪​な​の​でしょ​う​か。必ずしも​そう​で​は​あり​ませ​ん。イエス​に​よれ​ば,許さ​れ​ない​の​は『聖霊​に​対する​冒とく』です。また​パウロ​は,真理​を​知っ​て​い​ながら​故意​に​罪​を​習わし​に​する​者​に​は​罪​の​ため​の​犠牲​は​何​も​残さ​れ​て​い​ない,と​述べ​まし​た。(ルカ 12:10。ヘブライ 10:26,27)ですが,聖書​の​どこ​に​も,子供​を ― 近親姦​に​せよ​何​に​せよ ― 性的​に​虐待​する​大人​の​クリスチャン​は​許さ​れ​ない,と​いっ​た​こと​は​述べ​られ​て​い​ませ​ん。確か​に,その​人​が​心​から​誠実​に​悔い​て​行ない​を​改める​なら,その​罪​は​洗わ​れ​て​清く​なり​ます。しかし,それでも​なお​その​人​は,自分​の​培っ​た​良く​ない​肉的​衝動​と​闘わ​なけれ​ば​なら​ない​か​も​しれ​ませ​ん。(エフェソス 1:7)また,必然​的​な​結果​が​残る​か​も​しれ​ませ​ん。

わいせつ​行為​を​する​人​は,住ん​で​いる​国​や​地域​の​法律​に​よっ​て​も​違い​ます​が,恐らく,懲役​刑​に​服する​か,国​から​他​の​刑罰​を​科さ​れる​こと​は​避け​られ​ない​でしょ​う。会衆​は,そう​し​た​事態​に​至ら​ない​よう​当人​を​かばう​こと​は​し​ませ​ん。それ​に,その​人​は​重大​な​弱さ​を​露呈​し​た​の​で​あり,これ​から​は​その​弱さ​に​考慮​が​払わ​れ​なけれ​ば​なり​ませ​ん。悔い改め​た​よう​に​思わ​れる​の​で​あれ​ば,その​人​に​は,霊的​な​進歩​を​遂げる​こと​や,野外​奉仕​に​参加​する​こと,さらに​は​神権​宣教​学校​で​の​話​や​奉仕​会​の​プログラム​の​中​の​演壇​から​教える​の​で​は​ない​部分​を​扱う​こと​も​勧め​られる​でしょ​う。と​は​いえ,これ​は​会衆​内​の​責任​ある​立場​で​仕える​資格​が​得​られる​と​いう​意味​で​は​あり​ませ​ん。この​点​に​関し​て​は​聖書​的​な​どんな​理由​が​ある​でしょ​う​か。

一つ​に,長老​は「自制​心」の​ある​人​で​なけれ​ば​なり​ませ​ん。(テトス 1:8)もちろん,わたしたち​の​中​に,完ぺき​な​自制​心​を​持っ​て​いる​人​は​い​ませ​ん。(ローマ 7:21‐25)しかし,献身​し​た​大人​の​クリスチャン​で,子供​に​対する​性的​虐待​の​罪​を​犯す​人​は,不​自然​な​肉的​弱さ​が​ある​こと​を​明らか​に​し​て​い​ます。経験​が​示す​ところ​に​よる​と,その​よう​な​大人​は​他​の​子供​たち​に​も​わいせつ​な​こと​を​する​可能​性​が​あり​ます。確か​に,子供​に​わいせつ​な​こと​を​する​人​すべて​が​その​罪​を​繰り返し​犯す​わけ​で​は​あり​ませ​ん​が,繰り返す​人​は​少なく​あり​ませ​ん。また,会衆​と​し​て​も,だれ​が​再び​子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​そう​で,だれ​が​し​そう​で​ない​か​を,心​を​読ん​で​指摘​できる​わけ​で​は​あり​ませ​ん。(エレミヤ 17:9)ですから,パウロ​が​テモテ​に​あて​て​書い​た,「だれ​に​対し​て​も​決して​性急​に​手​を​置い​て​は​なり​ませ​ん。また,他​の​人​の​罪​に​あずかる​者​と​なっ​て​は​なり​ませ​ん」と​いう​助言​は,子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​て​き​た​バプテスマ​を​受け​た​大人​に​関し​て​特に​当てはまり​ます。(テモテ​第​一 5:22)会衆​の​子供​たち​を​保護​する​ため​に​も,子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​て​き​た​こと​が​知ら​れ​て​いる​人​は,会衆​内​の​責任​ある​立場​に​就く​資格​が​あり​ませ​ん。また,開拓​者​に​なる​こと​や​他​の​特別​な​全​時間​奉仕​を​行なう​こと​も​でき​ませ​ん。―出エジプト​記 21:28,29​に​示さ​れ​て​いる​原則​と​比較​し​て​ください。

中​に​は,こう​尋ねる​人​が​ある​か​も​しれ​ませ​ん。『他​の​種類​の​罪​を​犯し​た​人​たち​の​中​に​も,悔い改め​た​よう​に​見え​て,後​に​また​同じ​罪​を​犯し​た​人​が​いる​の​で​は​ない​でしょ​う​か』。確か​に,そういう​事​は​あり​まし​た。しかし,ほか​に​も​幾つ​か​考慮​す​べき​要素​が​あり​ます。例えば,だれ​か​が​不​道徳​な​こと​を​し​よう​と​し​て​他​の​大人​に​近づく​場合,言い寄ら​れ​た​大人​は​その​誘い​を​退ける​こと​が​できる​はず​です。ところ​が​子供​は,すぐ​に​だまさ​れ​たり,何​が​何​だ​か​分​から​なくなっ​たり,おびえ​て​しまっ​たり​し​やすい​もの​です。聖書​も,子供​に​は​知恵​が​欠け​て​いる​と​述べ​て​い​ます。(箴言 22:15。コリント​第​一 13:11)イエス​は​子供​を,謙遜​な​無​邪気​さ​の​例​と​し​て​用い​られ​まし​た。(マタイ 18:4。ルカ 18:16,17)子供​の​無​邪気​さ​に​は,全く​経験​が​ない​と​いう​面​も​含ま​れ​ます。子供​は​大抵,開放​的​で,人​に​好か​れ​よう​と​し​ます。それゆえに,自分​の​知っ​て​いる​信頼​する​大人​で​悪事​を​たくらむ​者​に​虐待​さ​れ​やすい​と​言え​ます。ですから,会衆​は​子供​たち​を​保護​す​べき​で​あり,エホバ​の​み前​に​そう​する​責任​を​負っ​て​い​ます。

子供​は​よく​しつけ​られる​と,親​や​長老​や​他​の​大人​に​対し​て​従順​に​なり,敬意​を​払う​よう​に​なり​ます。(エフェソス 6:1,2。テモテ​第​一 5:1,2。ヘブライ 13:7)もしも​それら​権威​を​持つ​人​の​一​人​が,その​無邪気​な​信頼​を​いい​こと​に​子供​を​性的​な​行為​に​誘う​か,子供​に​その​よう​な​行為​を​強要​する​と​すれ​ば,それ​は​言語道断​の​倒錯​行為​です。その​よう​な​仕方​で​わいせつ​な​こと​を​され​た​人​は,被っ​た​感情​的​な​痛手​から​立ち直る​まで​何​年​間​も​悩み苦しむ​場合​が​少なく​あり​ませ​ん。ですから,子供​に​わいせつ​な​こと​を​する​人​は,会衆​から​の​厳しい​懲らしめ​や​制限​を​免れ​ませ​ん。重視​す​べき​な​の​は,権威​ある​者​と​し​て​の​当人​の​威信​で​は​なく,むしろ​会衆​の,きず​の​ない​浄さ​です。―コリント​第​一 5:6。ペテロ​第​二 3:14

子供​に​わいせつ​な​こと​を​し​た​人​は,誠実​に​悔い改め​て​いる​なら,聖書​の​原則​を​当てはめる​こと​の​知恵​を​認める​でしょ​う。もし​邪悪​な​こと​を​本当​に​憎悪​する​よう​に​なっ​た​の​で​あれ​ば,自分​の​し​た​こと​を​忌み嫌い,同じ​罪​を​繰り返さ​ない​よう​懸命​に​努力​する​でしょ​う。(箴言 8:13。ローマ 12:9)それ​と​共​に,その​人​は​エホバ​の​愛​の​偉大​さ​に​感謝​する​に​違いあり​ませ​ん。その​人​の​よう​な,罪​を​悔い改め​た​人​が,聖​なる​神​を​依然​と​し​て​崇拝​でき,永久​に​地上​に​住む「廉直​な​者​たち」の​一​人​と​なる​望み​を​抱ける​の​も,その​愛​の​おかげ​だ​から​です。―箴言 2:21

[脚注]

^ 7節 「ものみの塔」誌,1996​年​5​月​1​日​号​の「読者​から​の​質問」を​ご覧​ください。

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罪​を​悔い改める​人​は​エホバ​に​許し​て​いただける​と​は​いえ,行なっ​た​こと​の​必然​的​な​結果​は​残る​か​も​しれ​ない