「生活と奉仕 集会ワークブック」の資料

「生活と奉仕 集会ワークブック」の資料

「生活と奉仕 集会ワークブック」の資料

© 2024 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania

3月11-17日

「エホバは……私を助け出す方

塔09 5/1 14ページ4-5節

聖書中の絵画的表現を理解する

聖書はエホバを無生物にもなぞらえています。例えば,「イスラエルの岩」,「大岩」,また「とりで」と呼んでいます。(サムエル第二 23:3。詩編 18:2。申命記 32:4)類似点は何でしょうか。大きな岩が安定していて動かないように,エホバ神も堅固な安全の源となってくださいます。

詩編は,エホバのご性格の様々な面を描写する絵画的表現で満ちています。例えば詩編 84編11節で,エホバは「太陽,また,盾」とされています。光,命,エネルギー,保護の源であられるからです。一方,詩編 121編5節は,「エホバはあなたの右手を覆うあなたの陰」であると述べています。日陰にいると太陽の熱から守られるように,エホバはご自分に仕える人たちを燃えるような苦難から守られます。いわばご自分の「手」や「翼」の陰で保護されるのです。―イザヤ 51:16。詩編 17:8; 36:7

塔研22.04 3ページ1節

な気ちと闘うためにできること

2. じっくり考える。これまでの人生の中で,エホバの助けがあったからこそ試練を乗り越えることができた,という経験がありますか。エホバがご自分に仕えた過去の人たちや私たちをどのように助けてきたかについてじっくり考えるなら,力が湧いてきて,エホバへの信頼が強まります。(詩 18:17-19)長老のジョシュア兄弟はこう言います。「私は,聞かれた祈りをリストにしています。このリストのおかげで,具体的に祈ってエホバがまさに必要な助けを与えてくれた時のことについて思い出すことができています」。エホバが助けてくださった時のことについてじっくり考えるなら,不安な気持ちと闘うための力を得ることができます。

宝石を探し出す

洞-1 869

ケルブ

これらのケルブは,ある人々が主張するように,周囲の異教諸国民が崇拝した,翼を持つ怪獣のような像に倣って造られた奇怪な象形ではありませんでした。古代のユダヤ人伝承の一致した証言によれば(聖書はこの点について沈黙している),これらのケルブは人間の形をしていました。それらは非常に見事な芸術品で,輝くばかりに美しいみ使いとしての被造物を表わしており,細かな点に至るまですべて,モーセがエホバご自身から受けた『型にしたがって』造られていました。(出 25:9)使徒パウロはそれらのケルブのことを『なだめの覆いを覆う栄光のケルブ』と呼んでいます。(ヘブ 9:5)これらのケルブはエホバの臨在と結び付けられていました。「そして,わたしはそこであなたに臨み,覆いの上方から,証の箱の上にある二つのケルブの間からあなたに話す」とあるとおりです。(出 25:22; 民 7:89)ですから,エホバは「ケルブたちの上に[または,間に]座しておられる」と言われました。(サム一 4:4; サム二 6:2; 王二 19:15; 代一 13:6; 詩 80:1; 99:1; イザ 37:16)象徴的な意味で,それらのケルブはエホバがお乗りになる『兵車のひな型』となりましたし(代一 28:18),ケルブの翼には,保護の働きや迅速な移動を可能にする働きがありました。それで,ダビデは詩趣に富む歌の中で,助けに来てくださるエホバの行動の速度を描写して,「ケルブに乗り」,さらには「霊の翼に乗って」『飛んで来られる』方のようであった,と述べました。―サム二 22:11; 詩 18:10

3月25-31日

宝石を探し出す

塔06 11/1 29ページ7節

わたしたちの神聖な集いに対して敬意を示す

7 わたしたちの集いに対して,幾つかの具体的な方法で敬意を示せます。一つは,王国の歌を歌うときにその場にいることです。その歌詞の多くは祈りの形になっていますから,崇敬の気持ちをこめて歌うべきでしょう。使徒パウロは詩編 22編を引用しつつ,イエスの言葉としてこう記しました。「わたしはあなたのみ名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ,会衆の中で歌をもってあなたを賛美します」。(ヘブライ 2:12)ですから,集会の司会者が歌について述べる前に席に着き,歌詞の意味をよく考えながら歌うようにするのが良いでしょう。わたしたちの歌声が,次のように記した詩編作者の心情に呼応したものとなりますように。「わたしは心をつくしてエホバをたたえる。廉直な者たちの親密な集いと集会において」。(詩編 111:1)そうです,エホバへの賛美を歌うためにも,わたしたちは集会に早めに着き,終わりまでそこにとどまりましょう。

4月1-7日

「エホバは私の牧

塔11 5/1 31ページ3節

「エホバはわたしの牧者」

エホバは羊を導かれる。牧者のいない羊は道に迷いやすいものです。同様にわたしたちも,人生における正しい道筋を見いだすのに助けを必要とします。(エレミヤ 10:23)ダビデの説明によると,エホバはご自分の民を「草の多い牧場」や「水の十分にある休み場」に,また「義の進路」に導かれます。(2,3節)そうした牧者を思い浮かべると,神に依り頼むことができるという確信を持てます。聖書を通して与えられる,神の霊による導きに従うなら,満足や,さわやかさ,安らぎをもたらす生き方ができるのです。

11 5/1 31ページ4節

「エホバはわたしの牧者」

エホバは羊を守られる。羊は牧者がいないと,憶病で無力です。エホバはご自分の民に,恐れる必要はないと告げておられます。たとえ「深い陰の谷を歩もうとも」,つまり人生における最も暗い時期と思える時でも,恐れる必要はありません。(4節)エホバはご自分の民を見守っておられ,いつでもすぐに助けることができます。ご自分の崇拝者たちに,試練に対処するのに必要な知恵と強さを与えることができるのです。―フィリピ 4:13。ヤコブ 1:2-5

塔11 5/1 31ページ5節

「エホバはわたしの牧者」

エホバは羊を養われる。羊は牧者がいないと食物を見つけられません。わたしたちも,神の助けがなければ霊的な必要を満たせません。(マタイ 5:3)感謝すべきことに,エホバは,必要なものを寛大に備えてくださる方であり,ご自分の僕たちの前に豊かな食卓を整えておられます。(5節)わたしたちは,人生の意義や人間に対する神の目的を知る必要があり,聖書や,本誌などの聖書研究用の手引きを通して,そうした必要を満たす霊的食物を得ることができるのです。

4月8-14日

ダビデは正しく歩む決をどのように強めたか

塔04 12/1 14ページ8-9節

忠誠の道を歩む

8 ダビデはこう祈りました。「エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎と心を精錬してください」。詩編 26:2)腎臓は,体内の奥深くに位置しています。それで,腎は比喩的な意味で人の最も深い所にある考えや感情を指します。また,心は,内なる人全体,すなわち動機,感情,および知性を表わします。ダビデは自分を調べてくださるようエホバに願い求めたとき,自分の内奥の考えや感情を調べ,精査してくださるようにと祈っていたことになります。

9 ダビデは,自分の腎と心を精錬してくださるよう嘆願しました。エホバはわたしたちの内面の人となりをどのように精錬されるのでしょうか。ダビデはこう歌いました。「わたしは,わたしに忠告を与えてくださったエホバをほめたたえます。実に,夜ごとにわたしの腎はわたしを正しました」。(詩編 16:7)どういう意味でしょうか。これは,神からの助言がダビデの内面の一番深い所に達してそこにとどまり,内奥の考えや感情を正した,という意味です。わたしたちの場合も,神の言葉,神を代表する人たち,また神の組織を通して受ける助言について感謝して熟考し,それを内面の深い所にとどめるなら,そのようになります。こうして精錬してくださるようエホバに定期的に祈ることは,忠誠のうちに歩む助けになります。

塔04 12/1 15ページ12-13節

忠誠の道を歩む

12 ダビデは,忠誠を強化するものとなったさらに別の要素に言及して,こう述べました。「わたしは不真実な者たちと共に座りませんでした。わたしは自分がどんな者かを隠す者たちと共に入って行きません。わたしは悪を行なう者たちの会衆を憎みました。わたしは邪悪な者たちと共に座りません」。詩編 26:4,5)ダビデは,決して邪悪な者たちと共に座ろうとはしませんでした。悪い交わりを嫌っていたのです。

13 わたしたちはどうでしょうか。テレビ番組,ビデオ,映画,インターネット・サイトなどを通して不真実な人たちと共に座る,といったことを避けていますか。自分がどんな者かを隠す人たちから離れていますか。学校や職場には,下心を持って友のように装う人がいるかもしれません。わたしたちは,神の真理によって歩んでいない人たちとの緊密な絆を育てたいと本当に思うでしょうか。背教者も,誠実であると唱えながら,わたしたちをエホバへの奉仕から引き離すという自分たちの意図を隠す場合があります。クリスチャン会衆に裏表のある生活をしている人がいるとしたら,どうでしょうか。その人も,自分が実際にどんな者かを知られないようにしています。ジェイソンはいま奉仕の僕として仕えていますが,若いころにはそのような友人たちがいました。それらの人について,こう述べています。「ある日,一人の子がわたしにこう言いました。『僕たちが今何をしているかは重要じゃないよ。新しい体制になる時にはどうせ死んでしまうんだから。何かを得損なったなんて知りもしないさ』。わたしはそれを聞いてはっと目が覚めました。新しい体制になる時に死んでいたいとは思いません」。ジェイソンは賢明にも,そのような友と交わるのをやめました。「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです」と,使徒パウロは警告しました。(コリント第一 15:33)悪い交わりを避けることは本当に重要です。

塔04 12/1 16ページ17-18節

忠誠の道を歩む

17 幕屋には犠牲のための祭壇があり,そこはイスラエルにおけるエホバの崇拝の中心地でした。ダビデはそこでの喜びを言い表わして,こう祈りました。「エホバよ,わたしはあなたの家の住まいと,あなたの栄光の住まう所を愛しました」。詩編 26:8

18 わたしたちはエホバについて学ぶための場所に集うことを愛しているでしょうか。どの王国会館でも霊的な教えの定期的なプログラムが進められており,そこはそれぞれの土地における真の崇拝の中心地をなしています。それに加えて,毎年,地域大会,巡回大会,特別一日大会があります。そのような集まりでは,エホバの「諭し」が考察されます。『それをこの上なく愛する』ようになっているなら,ぜひとも出席したいと思うでしょうし,そこにいるあいだは注意深く耳を傾けることでしょう。(詩編 119:167)わたしたちの個人的な福祉に関心を払い,忠誠の歩みを続けるように助けてくれる信仰の仲間と共にいることは,なんとさわやかなのでしょう。―ヘブライ 10:24,25

4月15-21日

は神の愛の表

洞-1 556

顔,面

顔を隠す』ことの意味は状況によって様々です。エホバ神がご自分の顔を隠すことは,多くの場合,ご自分の恵みもしくは支える力を引き戻されることを意味しています。このことが生じるのは関係する個人,もしくはイスラエル国民のような人々の集団の不従順の結果である場合もあります。(ヨブ 34:29; 詩 30:5-8; イザ 54:8; 59:2)この表現はまた,エホバがご自分の定めの時を待ちながら,行動や応答によってご自分を明らかにするのを差し控えておられることを表わす場合もあります。(詩 13:1-3)『わたしの罪からみ顔を覆い隠してください』というダビデの請願は,そのような違犯を赦すもしくは不問に付すことを神に懇願したものです。―詩 51:9。詩 10:11と比較。

塔07 3/1 19ページ1節

幸福のうちにエホバを待つ

エホバからの懲らしめがわたしたちを益する過程は,果物が熟す過程に例えられるかもしれません。神からの懲らしめについて聖書は,「それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出す」と述べています。(ヘブライ 12:11)果物が熟すのに時間が必要なように,神のお与えになる訓練に応じて態度を変化させるのには時間が必要です。例えば,不品行のゆえに会衆内での特権を失う結果になった場合,進んで神を待つ気持ちがあれば,落胆して投げやりになることを避けられます。そうした状況では,霊感を受けたダビデの次の言葉が励みになります。「[神]の怒りの下にあるのは,つかの間であり,その善意の下にあるのは,生涯に及ぶ……。夕方には泣き悲しむことが宿っても,朝には歓呼の声がある」。(詩編 30:5)待つ態度を培い,神の言葉と組織を通して与えられる助言を当てはめるなら,「歓呼の声」を上げる時が来るでしょう。

4月22-28日

な罪を告すべきなのはなぜか

近 262ページ8節

は「快く許してくださいます」

8 罪を悔い改めたダビデはこう言いました。「私はついに自分の罪をあなたに告白した。過ちを隠さなかった。……すると,あなたは過ちと罪をしてくださった」。(詩編 32:5)ここで「許し[た]」と訳されているヘブライ語には,「持ち上げる」とか「運ぶ」という意味があります。この聖句では,罪や違反を取り去るという意味で使われています。ですからエホバは,ダビデの罪をいわば持ち上げて運び去ったのです。そのおかげで,ダビデにとって重荷のようだった罪悪感が和らいだことでしょう。(詩編 32:3)私たちも,イエスの贖いの犠牲に信仰を持って許しを求めるなら神が罪を運び去ってくれる,と確信できます。(マタイ 20:28

宝石を探し出す

塔06 5/15 19ページ12節

詩編 第一巻の目立った点

33:6; 脚注 ― エホバの口の「霊」,もしくは「息」とは何のことですか。この霊とは,神が物質の天を創造した時に用いた活動する力,すなわち聖霊のことです。(創世記 1:1,2)エホバの口の霊と呼ばれているのは,強力な息のように,離れたところで物事を成し遂げるために送り出されることがあるからです。

4月29日–5月5日

「いつもエホバを賛する」

塔07 3/1 22ページ11節

わたしたちは相共にエホバのみ名を高めよう

11 「わたしは常にエホバをほめたたえよう。その賛美は絶えずわたしの口にある」。詩編 34:1)追われた者として生きていたダビデは,物質面でどのように過ごしてゆくかに関して多くの気がかりがあったに違いありません。それでも,この言葉に示されているように,日常の心配事のために,エホバを賛美しようとする決意をくもらせたりはしませんでした。難しい状況に直面したときのことを考えると,これはわたしたちにとって何とりっぱな手本なのでしょう。学校にいても職場にいても,仲間のクリスチャンと一緒のときも,公の宣教奉仕のときも,わたしたちのいちばんの願いは,エホバを賛美することであるはずです。考えてみてください。そうするべき理由は無数にあります。例えば,エホバの驚嘆すべき創造のみ業には,探究したり楽しんだりできるものが数限りなくあります。そして,エホバがご自分の組織の地上の部分を通して成し遂げてこられた物事についても考えてください。不完全ではあっても忠実な人々を用いてこの時代に壮大な業を進めてこられました。神の行なわれる事柄は,この世で崇められている人間の行なう物事とどのように比較できるでしょうか。次のようにも記したダビデに同意されるのではないでしょうか。「エホバよ,神々の中にあなたのような方はだれもいません。また,あなたのみ業にかなうものも何もありません」。―詩編 86:8

塔07 3/1 22ページ13節

わたしたちは相共にエホバのみ名を高めよう

13 「わたしの魂はエホバを誇りとする。柔和な者たちは聞いて,歓ぶ」。詩編 34:2)ここでダビデは個人的な業績を何も誇りとしてはいません。例えば,ガトの王を欺いた方法について自慢などしませんでした。ガトでエホバが自分を保護してくださったこと,エホバの助けで自分が難を免れたことを知っていました。(箴言 21:1)ですからダビデは,自分のことではなく,エホバを誇りとしたのです。こうした態度のゆえに,柔和な人たちはエホバのもとに引き寄せられました。同様にイエスもエホバのみ名を大いなるものとし,それによって謙遜で,進んで教えに応じる人々が神に引き寄せられました。今日,すべての国の柔和な人々が,イエスを頭とする油そそがれたクリスチャンたちの国際的な会衆に引き寄せられています。(コロサイ 1:18)それら柔和な人たちは,神の謙遜な僕たちがみ名をたたえるのを聞くとき,また聖書から伝えられる音信を聞いて神の聖霊の助けでそれを理解するとき,心を動かされるのです。―ヨハネ 6:44。使徒 16:14

塔07 3/1 23ページ15節

わたしたちは相共にエホバのみ名を高めよう

15 「わたしが尋ねると,エホバはわたしに答えてくださり,わたしのすべての怖れからわたしを救い出してくださった」。詩編 34:4)ここに述べられている経験はダビデにとって貴重なものでした。そのため,さらにこう述べています。「この苦しむ者が呼ぶと,エホバが聞いてくださった。そして,そのすべての苦難から彼を救ってくださった」。詩編 34:6)信仰の仲間と共にいる時,難しい状況に耐えられるようエホバがどのように自分を助けてくださったかについて,築き上げる経験を話す機会がたくさんあるでしょう。それは仲間の信者の信仰を強めます。ダビデの言い表わした事柄が,ダビデを支えていた人たちの信仰を強めたのと同じです。ダビデの場合,その友たちは,『エホバを仰ぎ見て光り輝き,その顔が恥をかくことはあろうはずがなかった』のです。(詩編 34:5)その人々もサウル王から逃げる身にありましたが,恥と思うことは何もありませんでした。神がダビデの後ろ盾となっていることを確信して,その顔は輝いていました。これと同じように,関心を持ちはじめた新しい人たちも長年真のクリスチャンとして歩んできた人たちも,エホバの支えを仰ぎ見ます。エホバの助けを自ら経験しており,その輝く顔は,忠実を保とうとする決意を反映しています。