「生活と奉仕 集会ワークブック」の資料

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© 2024 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania

9月2-8日

の言の宝 | 79-81編

エホバの輝かしい名への愛を示

イ解 記3 4-5節

ローマ 10:13 「主の名を呼び求める」

聖書中で「エホバの名を呼ぶ」という表現には,神の名を知ってそれを崇拝で用いる以上の意味があります。(詩編 116:12-14)それには,神を信頼し,神に助けを求めることが含まれます。(詩編 20:7; 99:6

神の名前はイエス・キリストにとって大切なものでした。イエスは主の祈りの中で最初にこう言いました。「天におられる私たちの父よ,お名前が神聖なものとされますように[または,あがめられますように]」。(マタイ 6:9)また,永遠の命を得るには,エホバを知って従い,愛さなければならないことをイエスは示しました。(ヨハネ 17:3,6,26

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洞-2 1103ページ6-7節

ヨセフ

ヨセフの名は傑出したものとなる ヤコブの息子たちの中でヨセフの地位が傑出していたことを考えると,ヨセフの名が時折イスラエルの全部族(詩 80:1)または北王国に含まれるようになった全部族を指して用いられたのは極めて適切なことでした。(詩 78:67; アモ 5:6,15; 6:6)ヨセフの名は聖書預言の中にも登場します。エゼキエルの預言的な幻の中で,ヨセフの相続地は2倍の分となっており(エゼ 47:13),「“エホバ自らそこにおられる”」という都市の門の一つにはヨセフの名が付されています。(エゼ 48:32,35)また,エホバの民の再統一に関連してヨセフは国民の片方の部分の長として述べられ,ユダがもう一方の長として述べられています。(エゼ 37:15-26)オバデヤの預言は「ヨセフの家」が「エサウの家」を滅ぼすことにあずかることを示し(オバ 18),ゼカリヤの預言はエホバが「ヨセフの家」を救われることを指し示していました。(ゼカ 10:6)霊的イスラエルの諸部族の一つとして出ているのは,エフライムではなくヨセフです。―啓 7:8

啓示 7章8節にヨセフの名が挙げられていることは,ヤコブの臨終の預言が霊的なイスラエルに当てはまることを示唆しています。それゆえ,ヤコブの強力な者であるエホバ神がキリスト・イエスを,「羊」のために自分の命をなげうつりっぱな牧者として与えてくださったことは注目に値します。(ヨハ 10:11-16)キリスト・イエスはまた,霊的なイスラエル人から成る神の神殿が拠って立つ土台の隅石でもあります。(エフェ 2:20-22; ペテ一 2:4-6)そして,牧者であり隅石であるこの方は全能の神と共にいます。―ヨハ 1:1-3; 使徒 7:56; ヘブ 10:12。創 49:24,25と比較。

9月9-15日

の言の宝 | 82-84編

えられている奉を大にする

塔般16.6 8ページ2-3節

天の鳥から学ぶ

エルサレムの住民にとって,ツバメはなじみ深い鳥でした。ツバメには建物の軒下に巣を作る習性があります。ソロモンの神殿に巣を作るツバメもいました。毎年神殿で巣作りをするツバメは,そこが安全な場所で,ひなを育てるのに最適であることを知っていたのでしょう。

詩編 84編の筆者であり,6か月ごとに1週間神殿で奉仕していた,コラの子の1人は,神殿の敷地内にあるツバメの巣に目を留めました。そして,エホバの家にずっと住んでいるツバメを羨んで,次のような感嘆の声を上げています。「あなたの大いなる幕屋は何と慕わしいのでしょう,ああ,万軍のエホバよ。わたしの魂はエホバの中庭を慕い求め,思い焦がれました。……鳥でさえ家を見つけ,つばめも自分のために巣を見つけ,そこにひなを置きました ― あなたの大いなる祭壇,ああ,万軍のエホバ,わたしの王,わたしの神よ」。(詩編 84:1-3)同様に,わたしたちも子どもたちも,定期的に神の民の会衆と共にいることを慕い求めているでしょうか。また,そのことに感謝しているでしょうか。―詩編 26:8,12

塔08 7/15 30ページ3節–31ページ1節

道理にかなった見方を培い,喜びを保つ

老齢になったり健康が衰えたりすると,エホバへの奉仕においてできる事柄が幾らか限られるでしょう。親の立場にある人なら,幼い子どもの世話に多くの時間やエネルギーが奪われ,個人研究やクリスチャンの集会からほとんど益を得られないように感じるかもしれません。しかし,自分のできないことばかりに目を向けて,まだ行なえる事柄まで見えなくなる,ということはないでしょうか。

今から数千年前,あるレビ人は実現不可能な願望を抱いていました。神殿で年に2週間奉仕する特権を与えられていましたが,いつまでもずっと祭壇の近くに住んでいたいという殊勝な気持ちを言い表わしたのです。(詩 84:1-3)この忠実な人にとって,満足感を抱くのに何が助けになったでしょうか。たとえ1日でも神殿の中庭で過ごせるのは類まれな特権である,ということを理解したのです。(詩 84:4,5,10)わたしたちも,できないことばかり考えるよりも,できることについて考えて感謝するよう心がけるべきです。

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洞-2 205

父なし子

これら家族を失った無防備な人々は見過ごされやすかったため,エホバはイスラエルが義にかなっている度合いや,義から逸脱している度合いを描写するのに「父なし子」という表現をお用いになりました。国民が霊的に健全な状態にあった時には,父なし子は顧みられました。その地で公正がゆがめられるようになると,父なし子は必ずなおざりにされ,これが国の衰退の兆候となりました。(詩 82:3; 94:6; イザ 1:17,23; エレ 7:5-7; 22:3; エゼ 22:7; ゼカ 7:9-11; マラ 3:5)父なし子を虐げる者たちの上にはエホバののろいがありました。(申 27:19; イザ 10:1,2)エホバはご自分を,父なし子を請け戻す方(箴 23:10,11),その助け手(詩 10:14),また父(詩 68:5)として表現しておられます。神は彼らのために裁きを執行し(申 10:17,18),彼らに憐れみを示し(ホセ 14:3),彼らを助け(詩 146:9),また生き続けさせる方です。―エレ 49:11

真のキリスト教を見分けるための印の一つは,夫や親を亡くして後に残された人たちに対する思いやりです。弟子ヤコブはクリスチャンにあててこう書いています。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコ 1:27

9月30日–10月6日

の言の宝 | 90-91編

エホバを信するなら永に生きられる

塔般19.1 5ページ囲

名前

このような疑問を多くの人が抱いてきました。あなたもそうかもしれません。宇宙やその中のすべてのものに始まりがあるなら,神様にも始まりがあるのでしょうか。

多くの科学者たちは宇宙に始まりがあると考えています。聖書もこの言葉で始まっています。「初めに神は天と地を創造された」。(創世記 1:1

宇宙が,何もないところから偶然に生まれることはありません。原因のないところに結果は存在しないのです。もし宇宙が始まる前に何もなければ,宇宙は存在していなかったでしょう。完全に理解するのは難しいですが,宇宙の始まりにはすべてを超越した存在が必要でした。エホバ神は無限の力と知恵を持った,目に見えない存在です。(ヨハネ 4:24

聖書は神様についてこう述べています。「山々が生まれる前から,また,あなたが地と産出的な土地を産みの苦しみによるかのように生み出される前から,実に,定めのない時から定めのない時に至るまで,あなたは神です」。(詩編 90:2)神様は常に存在してきました。そして,聖書で言う「初め」の時に宇宙を造りました。(啓示 4:11

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塔般17.5 5

守護天使はいるか

聖書は,個々の人に守護天使がいるとは教えていません。確かに,イエスはこう述べたことがあります。「あなた方はこれら小さな者[キリストの弟子たち]の一人をも侮ることがないようにしなさい。あなた方に言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を常に見守っているのです」。(マタイ 18:10)これは,キリストの弟子たち一人一人に守護天使がいるという意味ではなく,天使が弟子たち一人一人に深い関心を払っているということです。ですから,神様の真の崇拝者たちは,天使が保護してくれると考えてあえてリスクを冒す,という愚かで軽率な行動はしません。

では,天使たちは人間を助けてくれないのでしょうか。そんなことはありません。(詩編 91:11)最初の記事のケネスのように,神様が天使を使って保護や導きを与えてくださった,と確信している人もいます。断言はできません。しかし,エホバの証人は,伝道を行なっている時に,天使の助けを強く感じることがよくあります。天使は目に見えないので,ある人を助けるために神様がどれほど天使を使われるかは分かりません。とはいえ,全能の神がどんな助けを与えてくださるとしても,それに感謝するのは正しいことです。(コロサイ 3:15。ヤコブ 1:17,18

10月14-20日

の言の宝 | 96-99編

「良い知らせを……広めよ」

塔11 3/1 6ページ1-2節

良いたよりとは何ですか

クリスチャンには,『王国の良いたより』を宣べ伝える務めがあります。他の人にそのたよりを告げ,その王国こそ将来,義によって地を支配する世界政府となる,ということを知らせるのです。とはいえ,聖書中で「良いたより」という表現は,他の事柄に関しても用いられています。例えば,「救いの良いたより」(詩編 96:2),「神の良いたより」(ローマ 15:16),「イエス・キリストについての良いたより」(マルコ 1:1)などです。

簡単に言えば,良いたよりには,イエスが語り,弟子たちが書き記した真理すべてが含まれます。イエスは,天へ昇る前,追随者たちにこう命じました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)ですから,真のクリスチャンの行なう活動は,単に他の人々に王国について知らせるだけのことではありません。人々を弟子とするよう努力する必要もあるのです。

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洞-1 281

「新しい歌」に言及している箇所は「詩編」のみならず,イザヤや使徒ヨハネの書いたものの中にも出てきます。(詩 33:3; 40:3; 96:1; 98:1; 144:9; 149:1; イザ 42:10; 啓 5:9; 14:3)この「新しい歌」という表現が出て来る箇所の前後の文脈を調べてみると,そのような歌は大抵,エホバがご自分の宇宙主権を行使される過程で物事が新たな展開を遂げるゆえに歌われるということが分かります。詩編 96編10節では,喜びにあふれた作者が,「エホバ自ら王となられた」とふれ告げています。エホバの王権が伸長してゆく過程における物事の新たな展開,ならびに天と地にとって物事のそうした展開の意味する事柄が「新しい歌」の主題を成しているようです。―詩 96:11-13; 98:9; イザ 42:10,13